劉勲
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劉勲(りゅうくん、生没年不詳)は後漢・三国時代の武将。字は子台。青州・琅邪の人。
娘が一人いる(正史によると彼女は華佗の治療を受けたという)。
元は建平郡の県長だったが、後に袁術に廬江の太守へと登用される。
199年に袁術が死ぬと、劉勲は孫策の元へ落ち延びる袁術軍の大将張勲を捕虜とし、その軍勢も吸収する事に成功する(なおこの時に前後して袁燿・袁胤ら袁術の一族も劉勲に保護されていたようである)。
さらにこの頃、後漢の宗室系の劉曄が兵を連れ、降ってきたため、劉勲は一時江東の一大勢力へと発展した。しかし急増した兵を養えず、慢性的な兵糧不足に悩むことになる。
劉勲は兵糧獲得のために予章にある上繚へ出兵したが、その隙に本拠である皖城を孫策に攻め取られてしまう。さらに西塞山において孫策との戦いに完敗してしまい、劉勲は従弟の劉偕・甥の劉威(兄の子)・配下の劉曄らわずかの手勢と共に廬江を追われた。その後、劉勲は親交のあった曹操を頼り、北方へと落ち延びて行った。
曹操の配下として劉勲は河内郡太守に任じられるなど重用されたが、曹操の寵愛を笠に着て法を犯す振る舞いも多く、それを曹操配下の李申成の厳密な捜査によって告発され、後に罪に問われ処刑された。
[編集] 親族
- 劉偕(従弟)
- 劉威(甥、兄の子)