劉和
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姓名 | 劉和 |
年号 | 河瑞:310年 |
廟号 | - |
字 | 玄泰 |
諡号 | 厲王 |
生没年 | 生年不詳-310年 |
在位 | 310年 |
父 | 劉淵(長子) |
母 | 武元皇后呼延氏 |
劉和(りゅう わ 生年不詳 - 310年、在位310年)は中国、五胡十六国時代の前趙(当初の国号は漢)の2代皇帝。字は玄泰。諡は特に贈られていない。但し、後世の史家によっては廃帝和とも、帝和と呼ばれることもある。
目次 |
[編集] 略要
[編集] 生涯
劉淵の長子で、生母は匈奴の名門である武元皇后呼延氏(元勲の呼延翼の娘)。同母弟に劉裕と劉隆がいる。父・劉淵が漢王を称すると、彼は大将軍に任ぜられた。父が帝位に即くと、大司馬を兼ねて、梁王に封ぜられる。やがて、皇太子に立てられた。
310年に父・劉淵が没すると、後を継いで皇帝に即位する。しかし、彼は文武を好み優秀ではあったものの、嫉妬深い上に猜疑心が強く、暴君と言わざるを得ない君主だった。その一方、兵権を握る異母弟の楚王の劉聡の武勇を恐れた。そのために宰相となった母方の叔父である呼延攸の進言もあり、劉聡を都に召喚してこれを殺害すべく勅使を出した。だが、劉聡は兄の目論見を見破り、直ちに勅使を殺害して、ついに謀反を起こした。ただでさえ皇族の中でも最大の武力を誇る劉聡の楚王軍に対して、たちまち朝廷軍は総崩れとなった。都に乗り込んだ劉聡の手により、新皇帝の劉和は、同母弟の劉裕・劉隆、そして叔父の呼延攸と共に殺害された。さらに引き続いて劉聡は、兄・劉和の皇后(正妻)と貴妃(愛妾)ら、そして太子も含むその息子達をまとめて殺害して、自ら即位した。劉和の在位はわずか一ヶ月だったという。
[編集] 宗室
[編集] 后妃
不詳
[編集] 子
不詳
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