劉太公
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劉 太公(りゅう たいこう、? - 紀元前197年)は前漢の高祖(劉邦)の父。通称は漢の太上皇。姓は劉氏。名は煓、或いは煜。字は執嘉。
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[編集] 略伝・人物
[編集] 家族
先妻は劉媼(姓名は不明)で、後妻の姓名は不詳。
中国において「太公」とは、年長者に対して「爺様」または「とっつぁん」・「劉家の親爺」といったように親しみを込めて呼び掛ける言葉であるという。つまり、元々は名がなかったのではないかとか、本来は別に名があるが、忌諱に触れるのを憚って、司馬遷も班固も記録しなかったのではないかとも言われるが詳細は不明である。
一説に、息子の劉邦が沛郡(江蘇省徐州市沛県)の亭長となり、単父県(山東省菏沢市)から移住した富豪の呂氏と縁戚関係を結んだことを見ると、彼の生家は沛の豪農と思われる。つまり、小作人を召し抱えた裕福な農家出身ということである(或いは沛の地主とも)。
[編集] 生涯
彼は、沛県豊邑中陽里の農夫である。太公は三男坊の劉邦が農家の出でありながら、遊び人で遊侠の徒と付き合いのあったので、相互に折り合いがよくなかったようである。息子・劉邦が秦末の動乱により、漢王となり、楚漢戦争で項羽と政権を争うようになると、父親である太公もこれに否応なしに巻き込まれることになる。彭城の戦いで劉邦が項羽に大敗すると、そのどさくさに項羽に人質として、呂雉と共もに捕らえられ、以降、約三年間に亘って、人質としての生活を余儀なくされることとなる。
楚漢戦争は、彭城の戦いから、しばらくは、楚陣営が有利であったが、項羽とその家臣団との内紛や韓信や随何による、楚陣営諸国の平定・切り崩しにより、徐々に形成が逆転し始める。これに焦った項羽は、人質の二人を使い、事態の打開を図る。 広武山の戦いの時、項羽は大釜を用意して、
- 「汝の父親を釜茹でにされたくなければ、潔くこの俺に降伏せよ」
と、劉邦を脅迫した。
しかし、劉邦は、秦末の動乱の時期に、共に楚の懐王に仕えていた時の事を持ち出し、
- 「わしらは、義兄弟の契りを交わした間柄だ。わしの親父は、お前にとっても親父だ。釜茹でを執行するのならば、やればよろしい。よく茹で上がったならば、その煮汁をわしにも一杯分けておくれよ」
と、言って全く相手にしなかったという。
それから間もなく、両者の間に講和が成立すると、太公は呂雉と共に、劉邦の根拠地・関中に入ったようである。その直後、劉邦が、講和を破棄し、垓下・烏江で項羽を滅ぼし、皇帝となると、その父親である、太公は『太上皇』の称号を奉られ、人々の尊敬を一心にその身に集めることとなる。ちなみに、中国の歴史で、存命中に『太上皇』を名乗ったのは、太公が最初である。しかし、太公にとって、これはあまり居心地のよいものではなかったようである。
先に書いたように、劉邦は、遊び人で、遊侠者とも付き合いがあったことから、家族との折り合いがよくなかった。特に、長兄・伯の妻とは殊に折り合いが悪かったようで、劉邦が仲間達の前で、この嫂に恥をかかされることもあったという。このことを根に持って、
- 「誰が、あの女(嫂)の生んだガキ共を、(列侯に)取り立ててやるものか」
と、若死にした、長兄・伯の遺児である劉信に領地を与えるのを渋った時に、太公が、
- 「あの子達も、わしにとっては可愛い孫だから、どうか取り立ててやってくれんか」
と、口添えしたために、止むなく羹頡侯に封じた。そして代王に封建された次男・喜が、その封地の代に匈奴が攻め込んで来た時に、彼はろくに戦いもせずに逃亡し、その罪で、郃(ゴウ、合+阝= おおざと)陽侯に格下げされた。そして間もなく、劉邦が群臣を招いて宴会を開いた時に、父・太公も招いた。劉邦は群臣の前で昔の事を持ち出しては、
- 「その昔お父上は、よく私のことを、“ろくでなしだのなんだの”と、散々に馬鹿にしておりましたが、その反対に兄上(劉喜のこと)に対してはよく出来たやつだと褒めておりましたけど、今もそのお気持ちは、全くお変わりはありませんかな?」
と述べて、父・太公に対して大いに笑い者にしたという。
この一連の劉邦の太公及び家族に対する行動について、美川修一等々の研究者は、劉邦の出生に纏(まつ)わる伝説(昼寝をしている、劉邦の生母・劉媼の身体の上に龍が乗っかり、それから間もなく、妊娠が確認され、劉邦が生まれたという伝説。)は全くの嘘であり、劉媼の上に乗っかっていたのは、落ち武者か盗賊である。即ち、劉媼が強姦されて生まれたのが劉邦であり、このことを知っていた太公(及び家族)は、劉邦に対して愛情を抱くことが出来ず、お互いに冷淡な接し方をしてきたのではないかと指摘しているが、事実かどうかはその真偽は未だに不明である。
太公は、劉邦が死ぬ少し前に、高齢で没している。息子・劉邦に振り回され続けていた生涯だったと言えよう。
[編集] 宗族
[編集] 子
- 先妻の子
- 後妻の子
- 楚元王・劉交(字は游、一説に甥)