ノート:北条早雲
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伊勢宗瑞へのコピペ移動がされていたのを見つけたので差し戻しておきます。218.45.174.17 2006年8月13日 (日) 11:25 (UTC)
[編集] 加筆の趣旨
大幅に加筆しました。参考文献に挙げたとおり、一般向け書籍のみで書いてます。学術書とか論文の類は一切使っておりません。お恥ずかしい限りです。最近の家永氏、黒田氏、下山氏の記事と本がベースになってます。軍記物に書いてある馴染みのある面白い話は桑田氏や海音寺氏の古い70年代の本から拾ってあらましを書いてます。ただ、加筆前にもともとあった義澄-細川政元-今川氏親-早雲のライン云々は出元がよく分かりません。学界ではそういう話になっているのだろうかと思い、全体の文章がおかしくならない範囲で極力触れないようにしました。
出自に関しては、備中伊勢氏の「伊勢盛時」でほぼ確定しているようです。HPもいくつか観てみたら、だいたいこっちになっているようです。中には「素浪人」としているところもありましたが。問題は生年の方でして、これはわたしが加筆する前からこの項目は康正2年(1456年)説になっていました。読んだ最近の本は提唱者の黒田氏以外もこっちに傾いていて、少なくとも明らかに永享4年(1432年)を取る本はないです。HPの方なんですが、康正2年(1456年)説をとるところがほとんど全くなく、永享4年(1432年)説です。康正2年(1456年)説は、学界は知りませんが少なくとも一般人には浸透しておらず、相変わらず早雲は「大器晩成」のようです。この問題をググって決められた永享4年(1432年)生まれにほぼ確実にされちゃいます。ちなみに。複数の研究者が共同で書いている『クロニック戦国全史』(1995年)では早雲の生年は不明としています。
一般人が永享4年(1432年)説で、去年の『その時歴史が動いた』もそうなのだから、永享4年(1432年)説で行くべきと思われるでしょうが、そう簡単じゃないのです。早雲が永享4年(1432年)生まれだと、確実視されている「伊勢盛時」の父親の「伊勢盛定」との親子関係が成立しなくなっちゃうそうです。永享4年(1432年)説は取りにくいと考えます。それで、『クロニック戦国全史』あたりは、とりあえず生年不詳にしているのかと。
これは素人考えですが、なんで学界が康正2年(1456年)説で確定できないかと言うと、そうである確実な史料がまだ出てきていないのではないかと。本を読んだ感じでは康正2年(1456年)説は早雲が「子の年」生まれであり、姉の北川殿の結婚時期から勘案した推定の段階かと思います。現段階では早雲が「伊勢盛時」であることから、永享4年(1432年)生まれではありえない、かなり若い筈、しかし、康正2年(1456年)生まれとも確実な史料がなにか出てきていないので、なかなか確定できないのではないかと。一般人に至っては、「早雲は大器晩成」で決まっているのでしょう。
個人的にははっきりと康正2年(1456年)説です。子供の時分に桑田氏の本で北条早雲に関して読んで思ったのは、「幾らなんでもこの人年取りすぎ」最初に城主になるのが60歳過ぎ、70歳、80歳になってもガンガン働いてます。だから立派だみたいに書いてるのですが、なんか変だなぁ…と思ってたんです。それで10年ぐらい前に『歴史群像』の黒田氏の記事を読んで疑問が氷解しました。康正2年(1456年)生まれだとしっくり来るんです。やっぱり、少し変なんですよ。三浦氏を滅ぼした後も、86歳になって海を越えて房総半島で戦い続ける人って。
そんな訳で心情的には康正2年(1456年)説に傾いてます。わたしが書いたので「生年に関する論争」の部分は筆致がやや黒田説に傾いているかもしれません。永享4年(1432年)生まれ説で有効な反論がありましたら、論者を挙げて加筆して下さるとありがたいです。--味っ子 2006年12月12日 (火) 15:40 (UTC)
生年の問題で補足しますと、家永遵嗣学習院大学助教授は『戦国の魁早雲と北条一族―北条五代百年の興亡の軌跡』(2005年)の早雲の関する記事で康正2年〔1456年〕説を妥当として支持してます。中世史研究者の下山治久は『北条早雲と家臣団』(1999年)で一部疑問を持ちながらも康正2年〔1456年〕説で著書を進めています。特に家永氏は室町時代の研究では高く評価されている人の模様です。それ以前の本は康正2年〔1456年〕説が出る前なので問題にならないかと。
テレビによく出て今年の大河ドラマの監修をした今川氏と後北条氏研究で業績のある小和田哲男静岡大学教授については、「その時歴史が動いた:戦国をひらいた男~北条早雲 56才からの挑戦~」(2005年)でゲストをしていて、この放送では永享4年(1432年)説です。ただ、参加した『クロニック戦国全史』(1995年)では早雲の生年は不明となってます。「その時歴史が動いた」はサブタイトルからNHKが高齢世代にアピールすることを望んだと考えられ、小和田氏としては生年不詳のポジションではないかと推察します。その他の研究者のポジションは不勉強なので、よく分かりません。まだ「大器晩成」と言っている研究者もいるのでしょうか?
HPの類はほぼ永享4年(1432年)説です。昔からそうなってるし、司馬遼太郎がそう言ってるし、信長の野望の設定もそうだから、仕方がないですね。ググって数で決めるなら調べるまでもなくこっちでしょうね。
将来(1年後か5年後か知りませんが)、もしもこの件が問題になって、投票になるようでしたら、あらかじめ康正2年〔1456年〕説に一票入れておきます。理由は個人的にこの説を支持するのと、1000人のHPオーナーよりも、家永氏と下山氏のこの説への支持を重く見たいと思います。--味っ子 2006年12月12日 (火) 22:55 (UTC)
「義澄-細川政元-今川氏親-早雲」の最初の出所は不明ですが、近年の明応の政変の再評価と関係があると思われます。
義澄擁立運動の中心は管領細川政元と義澄実父の足利政知だと考えられており、将来的には関東は政知の子・潤童子、京都の将軍は同母弟義澄、管領は義澄とは母方の従兄弟の関係にあたる政元養子細川澄之への継承という構想だったのではと言われています。ところが政知が死に異母兄の茶々丸が潤童子とその母親(つまり、義澄生母。ちなみに細川澄之の母方叔母でもある)を殺したためにその計画が頓挫してしまった。更に先後関係では逆になってしまうのですが、結果的に将軍生母を殺してしまった茶々丸に対して幕府の討伐軍が編成されるのは当然の成り行きであったと考えられます。その場合、伊豆の隣国である駿河守護である今川氏がその役目に付くのが自然です。先の享徳の乱でも足利成氏討伐のために当時在京していた今川範忠(氏親の祖父)がわざわざ駿河本国に戻って鎌倉を占領しに行っています。ただし、氏親はまだ21ですから実際に討伐軍の主力として期待されたのが、その後見であった早雲であったと言う事だと思います。
あと付け加えるならば、当時の相模守護は扇谷上杉定正、伊豆守護は上野に根拠を持つ関東管領山内上杉顕定であったわけですが、この時期に両者は長享の乱と呼ばれる戦いを起こしているのですが、扇谷上杉家本国であった相模を北と南から山内上杉家に挟まれている状況は決して好ましいものではなく、かといって伊豆を攻めると背後から山内上杉家や下総千葉氏といった対立勢力に突かれる恐れがある。そのため、上杉定正も早雲の伊豆攻めには一枚噛んでいたのではという話が当時から言われていたようです。ちなみにその後、伊豆国が分割され、半島部は早雲に諸島部は三浦義同(扇谷の守護代、後に早雲に討たれる)に分割され、早雲・氏親が扇谷上杉支援に乗り出すなど、扇谷上杉家にとって一時的に有利な事態が続くようになります。--水野白楓 2007年2月17日 (土) 02:33 (UTC)