北郷忠相
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北郷 忠相(ほんごう ただすけ、明応5年(1496年) - 弘治3年(1557年)は戦国時代の武将。島津氏庶流、北郷氏の当主。北郷数久の子。島津豊州家五代の島津忠親は実子である。
1523年までは、伊東尹祐の猛攻に辛うじて都城を維持している状態だったが、尹祐の急死によって、伊東氏と和議を結ぶ。これを転機として、本田親尚や新納忠勝を攻め、次第に領域を拡大していく。
1532年、島津忠朝・北原久兼と密約を交わし、三軍で伊東氏領の三俣院高城を襲撃。伊東軍に壊滅的打撃を与えた(不動寺馬場の戦い)。 伊東氏はこの敗戦に加え、家中に内紛が発生したことで三俣院の維持が困難となり、軍勢を引き上げた。
こうして伊東尹祐に奪われた領域の回復を果たし、勢いに乗じて新納氏の梅北、松山、末吉などの諸城を攻略すると、都城から三俣院高城に本拠を移した。
1542年には伊東・北原連合軍が再び侵攻してきたが、大楽で撃退(大楽合戦)。この合戦以後、伊東氏は三俣方面から完全に撤退し、北原氏も野々美谷城を失って引き上げた。 この後さらに北原氏から山田城・志和池城を奪取した北郷氏は庄内一円を知行する最盛期を迎えることになる。
1557年、62歳で没。法名仙岩浄永居士。