叫ぶ詩人の会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
叫ぶ詩人の会 (さけぶしじんのかい) は1990年に結成され、1994年にメジャーデビューした日本のロックバンドである。
現代詩の朗読(ポエトリーリーディング)とパンクロックを主体とする独特のパフォーマンスで大きな話題を呼んだが、メンバーの覚醒剤不法所持事件をきっかけに、1999年に解散した。主要メンバーはボーカルの「ドリアン助川」(明川哲也)とドラマー「きりばやしひろき」。主な作品は「虹喰い」「LOVE&PEACE」「恋歌」「青」「ベルリン発プラハ」「花束」「GOKU」など。メンバーはそれぞれにラジオパーソナリティなどもつとめるほか、著書なども数多く出版している。
目次 |
[編集] 結成
演劇を志して早稲田大学の門を叩いた助川は学生演劇集団「青」を結成。演劇ブームの風に乗り、軌道に乗ったかに見えた活動は助川のワンマンのために破綻。塾講師の仕事を得るがアルコールのためにこの職も失い、入り浸っていた新宿ゴールデン街の業界人たちに紹介されるがままに放送作家の世界に足を踏み入れる。
真面目な仕事ぶりで一躍売れっ子となる助川だったが精神的に追い詰められ、八十年代末、アンジーの水戸華之介とともに取材に訪れた東欧での体験がこのバンドを結成させるきっかけとなる。それはチェコで聴いた市民の歌う「ヘイ・ジュード」であり、アウシュビッツに送られる直前の子供たちが描いた拙い絵であった。それらは表現の原点を助川に教え、同時にそれらに激しく突き動かされる自分の中に残っていた「感じる」という才能に気づかせたのである。
[編集] デビューまで
詞の朗読とパンクロックの融合。アメリカのパティ・スミスやヘンリー・ロリンズがすでに確立されていたスタイルではあったが日本ではなかなか理解されず、デビューまでのメンバーチェンジは二十名を越えるという(最初のメンバーはお笑い芸人のパンチUFO)。その中で助川の弟分であった我童(がっぱ)だけが長期に渡り助川についてくるが彼は楽器ができなかったためサブボーカルを担当していた。
デビュー直前に我童以外のメンバー(つまり楽器隊全員)が脱退。我童が知り合いのTakuji(ギター)を連れてきて、TakujiがラフィンノーズのサポートメンバーだったHiroki(現きりばやしひろき、ドラム、キーボード、プログラミング)を引っ張り、我童が弾けないベースを下げるという形で1994年にメディアレモラスより「虹食い」でデビューする。
[編集] 絶頂期
デビューアルバムでは助川が特派員だった時代の経験を活かしたカンボジアを題材に取った反戦歌など、激しいビートに乗せて詩を絶叫する曲がほとんど。二作目「LOVE&PEACE」ではそれを踏襲しながらも、佐川急便のCM(本人たちが出演)で使われた「道を越えて」などスケールの大きな作品も登場する。よくも悪くも規格外だった二作を経てリリースした「恋歌」によって、バンドは大きな転換期を迎える。ファースト、セカンドが放送作家や劇団を主宰していた頃の過去の遺産で書かれたものだとすれば、これは助川が単独で行っていたラジオ番組などでの人との出会いによってもたらされた経験が書かせた作品である。またラストを飾る大作「赤とんぼ」では元ARBの白浜久をプロデューサーに迎え、そのポップなエッセンスを吸収することでファンの幅を広げた。
しかし1996年春、バンドの方向性に疑問を抱いた我童が脱退。また所属していたレーベルが倒産。バンドは活動休止に陥る。しかしその年の秋から始まった深夜番組では助川が洋楽を題材に英語を教える番組が始まり(他のメンバーも生徒役で出演)バンドの知名度は飛躍的に伸びるが、売上にはつながらなかった。
1997年、バンドはポニーキャニオンと契約。ベスト盤と製作の進んでいた四枚目のアルバム「青」をリリース。この中でドリアンは「叫び」をやめ「歌う」ことに徹していた。それは明らかにバンドの本質の変化を示していた。
[編集] 事件、解散まで
1997年秋、叫ぶ詩人の会は、助川の小説と同タイトルのアルバム「ベルリン発プラハ」を引っさげての全国ツアー初日を、大阪バナナホールで迎えるはずだった。しかし公演は中止。ギタリスト・Takujiが覚醒剤所持による現行犯逮捕されたためだった。バンドは活動休止に追い込まれ(助川個人の活動は継続)翌日のラジオ番組では憔悴しきった助川がマイクに向かって、さまざまな言葉(中には悪意に満ちたものもあった)に答え続けた。
1998年夏、Takujiを失ったバンドは復活する。しかしポニーキャニオンからは契約を打ち切られ、バンドは窮地に追い込まれる。テレビやラジオなど、一人歩きしたドリアン助川のイメージと現役メンバーのドラッグ使用というギャップから求心力を急速に失ってしまったのだ。
1999年、インディーズレーベルでラストアルバム「GOKU」をリリースするもののこれは事実上Hirokiのソロワークとも言うべきもので、バンドとしては完全に「終わって」いた。同年夏、バンドは無期の活動休止を発表する。事実上の解散である。
助川はドリアンの名を捨て、単身ニューヨークへ。バンド活動を経て、現在は明川哲也の名で執筆活動を行う。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- こんなこととかしてきました暴発 - 明川哲也のサイト