周仏海
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周 仏海(しゅう ぶっかい・周 佛海、1897年-1948年2月28日)は、中華民国の財政家・政治家。本名周 福海。
湖南省生まれ。日本に留学し第七高等学校造士館・京都大学に学ぶ。この頃から共産主義に触れるようになり中国共産党とも接触を持つ。1921年に開催された中共一大会議には日本への留学生を代表する形で参加した。しかし、1924年に帰国すると中国国民党宣伝部秘書になり、共産党と関係を絶つ。
その後、北伐に参加し一時汪兆銘の武漢国民政府に参画するが、その後は蒋介石に従い、国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年に汪が対日和平を志向して重慶を脱出すると、これに従い汪兆銘政権成立に参加する。
汪政権成立後は行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・物資統制委員会委員長を歴任した。
戦後、漢奸として逮捕され死刑を求刑されるが、無期徒刑に減刑される。汪政権の高官の多くが死刑判決を受ける中で周だけが一段低い判決を受けた背景には、戦時中に戴笠や杜月笙を通して国民政府と通じたりし、結果として国民政府軍の占領をスムースに進めさせることが出来た見返りだと言われている。南京で収監中に獄死。
彼の息子の周幼海は共産党員となった。
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