和船
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和船(わせん)とは、日本列島において発達した構造船及び準構造船の総称である。極めて狭義の分類では、室町時代の遣明使船から江戸時代の弁才船に至る、「一枚横帆による帆走」と「船梁や船棚によって構成される船体構造」を特徴とする船舶のみを指すこともある。しかし石井謙治や出口晶子ら日本船舶史を専門とする研究者たちはこうした定義を採用しておらず、学術的には無効と言って良い。
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[編集] 総説
日本列島は船舶の設計思想において西洋の船と大きく異なる形の発展を遂げた。すなわち、西洋の船が応力を竜骨や肋材で受け、外板は応力を負担しない構造であったのに対し、日本列島の船舶は古代の丸木舟以来、外板が応力を受け持つモノコック構造だったのである。船形埴輪に見られる古墳時代の準構造船、平安時代の遣唐使船、諸手船、明治時代の打瀬船、あるいは丸子船や高瀬舟など内水面で使用された船舶に至るまで、日本列島の船舶は全てこのような設計思想のもとに建造されていた。
和船とは、こうした基本構造のもとに、日本列島各地の風土や歴史に応じて多種多様な発展を遂げた船舶の総称なのである。
[編集] 主な構成要素
和船にだけあり、他の船には無いという要素は存在しない。しかし要素の選択の傾向という点では和船は明らかに独自性を持っている。まず船体の構造について見ると、船底材に舷側材を棚の形で継ぎ足していくという点が、和船全てに共通する特徴である(ただしこうした特徴はミクロネシアやポリネシアの大型帆走カヌーにも顕著なので、和船独自の特徴とは言えない)。船底材は最初期の準構造船においては単材を刳り抜いたものであるが、後に東北地方に多く見られるムダマハギ構造(単材から複数の船底材を刳り抜いてはぎ合わせる工法)に進化し、最終的にははぎ合わせた板材に棚を追加し船梁で補強する棚板造りへと進化した。
推進方法は帆、長櫂・車櫂(オール)、艪、練櫂・小櫂(パドル)、棹の5種類が用いられている。
帆は江戸幕府の政策もあって1本マストに一枚帆という形式が多く、帆形は四角帆が主流であった。しかし打瀬船のように2本あるいは3本マストの和船も存在していたし、帆の下端を絞り込むことで逆三角帆とすることもあった。
日本列島においてはオールは長櫂や車櫂と呼ばれ、長櫂は瀬戸内海を中心に、車櫂は東北から北海道にかけて使用された。艪は東北から種子島までの範囲で用いられ、奄美以南では小櫂(パドル)が用いられた。
[編集] 沖縄・北海道の船
沖縄人や北海道のアイヌは近世以降に日本国民となった集団であるが、彼らが用いた船舶が和船と言いうるかどうかは議論が必要である。例えば琉球王国で使用されていた船舶のうち、大型の構造船「進貢船」はジャンクに近い設計であるし、小型のサバニは全て丸木舟(クリブニ)であった。一方、奄美大島で用いられていた小早船(クバヤ)や板付(イタツケ、イタツキ)は明らかに和船の系統と言いうるものである。
北海道に目を転じてみると、実は近世以前のアイヌの船舶については殆ど史料が無いのが現状である。ただ、苫小牧市沼ノ端から出土した17世紀のイタオマチプの残骸や千歳市美々8遺跡出土の舟の残骸から見ても、タナ発達、縫合船という点で和船に非常に近い構造を持っていたことが窺われる。
余談ではあるが、近代の一時期、日本国民であった台湾島のヤミ族やアミ族の船舶(タタラなど)も、和船と一部の特徴を共有するものである。
サバニに関して付記しておくと、琉球処分以前のサバニは丸木舟だったので、和船とは言い難い。しかし明治以降は宮崎産の飫肥杉を用いたハギ舟(糸満ハギ、南洋ハギ)となったので、構造面からも和船と言いうるものである。
[編集] 最も狭義の「和船」の航行性能
江戸初期までの和船は帆桁が下部にもあり風上への航行が出来なかったため、軍船の場合は数十挺から多いものでは百挺以上の櫓を有し漕走を主とした。江戸中期以降の弁才船になると下部の帆桁がなくなり、帆の下部をすぼませる事で風上への航行(間切り走り)も可能となったため江戸時代の近海海運は大いに発展することとなった。