土一揆
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土一揆(つちいっき)は、室町時代中期 - 後期に発生した民衆の政治的要求活動をいう。どいっきと呼称することもある。
室町中期ごろ、商品経済の発達や農業生産の向上、惣結合の強化などに伴う社会情勢の変化により、まず当時の先進地域だった畿内において、民衆が連帯組織=一揆を形成して、支配者(幕府や守護など)へ政治的な要求を行うようになった。これを土一揆という。この頃には、惣村の形成に見られるように、百姓らの自治・連帯意識が非常に高まっており、そうした流れの中で、百姓や地侍、馬借らが広域的に連合する土一揆が発生したと考えられている。
土一揆のほとんどは、徳政の実施を要求した。そのため、土一揆を徳政一揆ということもある。当時、動産・不動産の所有権は、売買などが行われたとしても、元の所有者が保持しているべきだとする観念が存在しており、あるべき姿=元の所有者へ所有権を戻すことこそ、正しい政治=徳政であるという思想が広く浸透していた。百姓らにとって、そうした徳政を要求することは、当然の権利と認識されており、経済的な困窮が土一揆の主要因だったとは言えない。天皇や将軍の代替わり時には、徳政を行うべき機会として、土一揆が発生することが多かった。次第に土一揆は頻発していき、毎年のように見られるようになった。
こうした土一揆の頻発は、幕府権力の弱体化をもたらしていったが、幕府の対応は鈍く更に実際に鎮圧にあたった守護大名配下の武士の中にも長年の京都滞在に伴う生活逼迫から似たような状況下に置かれた農民達に同情的な者も多く、一揆側に寝返る者が現れる始末で、幕府が度々諸大名に配下の徹底管理を命じている。また、応仁の乱直前には都に集結した兵士によって土倉などが荒らされて「私徳政」と称した事件も発生している。果ては幕府自体が財政難を救うためにあえて一揆を黙認して「分一徳政令」(紛争となった債権額の一割を幕府に納付した紛争当事者が自由に処理できるとした徳政令)を出すに至ったのである。このため、土倉や寺院と言った一揆の標的となりそうな者達は自ら自衛のための兵士を雇ってこれを防ぐ他なかった。
1428年の正長の土一揆、1441年の嘉吉の徳政一揆、1454年の享禄の土一揆、1457年の長禄の土一揆がなどが知られる。
これに対して国人勢力が中心となって波及したものを国一揆という。