土倉
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土倉(どそう、とくら)は、鎌倉時代及び室町時代の金融業者。現在の質屋のように物品を質草として担保とし、その質草に相当する金額の金銭を高利で貸与した。
平安時代の末になると、日本でも大量の宋銭が輸入され、都市を中心に貨幣経済が浸透してくる。このような中、富裕な僧侶、神人などが寺社の保護のもと、無担保で高利の貸金業をはじめ、借上(かしあげ)と呼ばれるようになる。これらの業者が担保として物品を預かるようになり、担保品を保管するために土蔵を建てたことから土倉と呼ばれるようになった。
鎌倉後期から室町時代になると、これら土倉を営む酒屋が多数出現し、土倉・酒屋と並称されることが多くなる。
室町幕府は土倉に対し、倉役(土倉役)と呼ばれる税を課し、主要財源の一つとなる。幕府は納銭方と呼ばれる役職を設けてこれらの徴税にあたったが、納銭方に任ぜられるのは土倉・酒屋の中の有力者で、自然と幕府の経済政策に対する影響が大きくなっていった。また、室町幕府は土倉を保護すると共に統制した。それまで利息は8文子、10文子(元金100文につき月利8〜10文)であったが、4文子以下にするように法令を出した。しかし実際にはあまり守られなかったようだ。南北朝の動乱以降、荘園制が崩れてくると、荘園領主である貴族や寺社の資金繰りが苦しくなり、土倉・酒屋に借金を重ねる。土倉・酒屋の中には貴族や寺社から荘園の徴税権を担保にし、実際に荘園領主の代官として現地に乗り込んで年貢を徴収する者も現れた。また、スポンサーである寺社の没落と対照的に土倉・酒屋は栄え、独立していく。
これら土倉・酒屋は資金力にものを言わせ、有力な町衆として自治都市の主導権を握る。その一方、多くの人から恨みを買いやすい土倉・酒屋はたびたび、徳政一揆で襲撃の対象にされた。土倉・酒屋はそれに対抗し、金で用心棒を雇い自衛する。
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