坂額御前
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坂額御前(はんがくごぜん、生没年未詳)は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将とされる女性。父は城資国で、兄弟に資永、長茂らがある。名は板額、飯角とも。
実家の城氏は越後国における有力な平家方の豪族であったが、治承・寿永の乱を経て没落、一族は潜伏を余儀なくされる。坂額は同時代の巴御前と並び称される程の武勇の持ち主であり、十数年の雌伏の後、1201年に越後国において甥(資永の子)の資盛とともに挙兵する(建仁の乱)。これは兄の長茂の鎌倉幕府打倒計画に呼応したものであり、長茂自身は程なく京において討ち取られるが、資盛と坂額は要害の鳥坂城に拠って佐々木盛綱らの討伐軍を散々にてこずらせた。
しかし最終的には藤沢清親の放った矢に当たり捕虜となり、それとともに反乱軍は崩壊する。坂額は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾される。
坂額は義遠の妻として甲斐国に移り住み、後に女子一人を儲け、同地において没したと伝えられている。
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