増山正任
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増山 正任(ますやま まさとう)は、江戸時代の大名。伊勢長島藩の第2代藩主。
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時代 | 江戸時代前期から中期 | |||
生誕 | 延宝7年(1679年) | |||
死没 | 延享元年7月3日(1744年8月10日) | |||
別名 | 大助(幼名) | |||
戒名 | 大空院殿覚月明円大居士 | |||
官位 | 従五位下、河内守 | |||
藩 | 伊勢長島藩主 | |||
氏族 | 増山氏 | |||
父母 | 父:増山正弥、母:杉浦氏(寿光院) | |||
兄弟 | 増山正任、増山正元、小出英庸、 増山政照、安、照 |
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妻 | 正室:小笠原長章の娘・源姫(清泉院) | |||
子 | 5男4女(増山正武、増山正篤、 娘(本多忠方室)) |
延宝7年(1679年)、常陸下館藩主・増山正弥の子として生まれる。宝永元年(1704年)、父の死去により後を継いで伊勢長島藩主となった。しかし宝永4年(1707年)10月の大地震、宝永5年(1708年)の地震、宝永6年(1709年)の大風雨、正徳元年(1711年)、正徳4年(1714年)、享保5年(1720年)、享保7年(1722年)の風水害で藩は大被害を受け、荒廃した。このため、藩士に堤防を警備させ、治水工事を行なうなどしている。
また、佐藤直方や三宅尚斎ら多くの学者・武術者を招聘して文武を奨励し、藩士の教育化に務めた。また、連年風水害による凶作に備えて義倉を設置し、90歳以上の老人には扶持を与えるなど、当時としては革新的な福祉政策も採用した。寛保2年(1742年)4月7日、病気により次男の正武に家督を譲って隠居し、延享元年(1744年)7月3日に死去。享年66。
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