壬戌丸
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1862年、英国ジャーディン・マセソン社(Jardine Matheson)の汽船ランスフィールト号(Lancefield 300馬力、長さ70メートル)を購入。この年の干支に因んで、壬戌丸と名付けられた。購入担当を命ぜられたのは、井上馨と同僚の長嶺内蔵太と主任の山田亦介の3名。3名は、横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)に必要な洋銀の購入を一任した。洋銀を一挙に購入するとドル相場が暴騰するので、伊豆倉商店に一任すれば手数料は要らないとの事であった。購入価格は支店長ケスウィック(Keswick)と英国領事ガワー(Anthony James Gower)との交渉から12万ドルと決められた。山田主任が船長となり、井上、長嶺、大和弥八郎、遠藤謹助、森重健蔵等は乗組士官を命ぜられた。船の引渡しを受けたものの、運転出来る者がおらず、技術に習熟するまで、外国人を必要とした。攘夷を唱えるのに外国人を雇用するのは問題であったが、妥協案として攘夷の実行までは時間があるから開戦の時期になったら解雇する事で藩政府の了解が得られた。しかし結局、幕府の海軍奉行勝安房守の塾で機関学を教授していた庄内藩士高木三郎(1841-1909)を招き指揮運転が可能になった為、外国人を解雇し、ようやく横浜から品川沖まで回航する事が出来た。乗組士官らと山田船長との不和により険悪な事態に到った為、藩邸より周布政之助(1823-1864自刃)が船内に出張して調査し、船長は北条源蔵、機関担当を平川藤兵衛、来島亀之助に、事務担当を梅田虎次郎、航海担当を長嶺豊太郎とした。
1864年、四国連合艦隊下関砲撃事件で、アメリカ軍艦ワイオミング号に真っ先に沈没させられた。