多ね国
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多褹国(たねのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つで、西海道に位置する。現在の鹿児島県の種子島と屋久島にあたる。8世紀から9世紀まで、122年間存続した。
[編集] 沿革
7世紀後半には、多禰島(たねのしま)、多禰国として日本と通交があった。
『続日本紀』大宝2年 (702年) 8月1日条に「薩摩多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」という記事があり、これが多褹の征服と多褹国建置を示すと考えられている。
多褹の場合、国のかわりに島(嶋)の字を用いて、多褹国を多褹島、その国司を島司と表すこともあった。国を島とも呼ぶのは、対馬、壱岐と共通する。
天長元年 (824年) 10月1日に、多褹島司を廃止し、能満郡、熊毛郡、馭謨郡、益救郡の四郡を熊毛郡、馭謨郡の二郡に統合して、大隅国に編入した。
国府の所在については、諸説あって未だ定まっていない。屋久島の益救神社が多褹一宮であったとされる。