大正政変
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大正政変(たいしょうせいへん)は、1913年(大正2年)に起こった憲政擁護運動(第1次)により、第3次桂内閣が倒れたことを指す。
明治末以来、薩長藩閥の代表である桂太郎と立憲政友会の西園寺公望(公家出身)が交互に政権を担う慣例が続いていた(桂園時代と呼ばれる)。
明治天皇が亡くなった年の1912年12月、陸軍の二個師団増設要求を拒んだため、第2次西園寺内閣が倒され、桂太郎が3度目の組閣を行ったが、財界などから軍閥批判の声が高まった。各地で護憲擁護運動が起こり、1913年2月10日には数万人の民衆が議会を取り囲んだ。議会では立憲政友会の尾崎行雄や立憲国民党の犬養毅が桂を激しく糾弾した。桂は議会を停会にしたが、民衆は警察署や交番、御用新聞の国民新聞社などを襲撃した。このため桂内閣は総辞職した。後継の首相には山本権兵衛が就いた。
日比谷焼打事件でも示された民衆運動の力が、はじめて政権を倒した事件として歴史的な意義がある。
この間、1913年1月、桂は政友会に対抗するため、自ら政党を結成した(桂新党)。桂内閣は倒れ、まもなく桂も死去するが、これが立憲同志会、のちの憲政会となった。
一方、政友会はその後手痛いしっぺ返しを喰う事になった。第1次山本内閣への入閣と言う形で利益を得る事になった政友会に対して、国民は勿論の事、国民党や政友会内部からも反発が噴出して尾崎は岡崎邦輔らとともに政友会を離党した(岡崎は後に復党するが、尾崎はそのまま中正会を結党した)。更に桂が出させたものであるとはいえ、「公家は天皇の藩屏でなければならない」と信じる西園寺にとって、自分が率いる政友会が天皇の詔勅を無視した事は許されるものではないと考えて総裁の辞表を提出してしまった。
このため、政友会は議会での孤立と党首不在と言う2つの非常事態に陥った。西園寺は後任に松田正久を推したものの、その松田も急死したために代わって原敬が西園寺の後継総裁に就任する事になるのである。