大道寺小三郎
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大道寺 小三郎(だいどうじ こさぶろう、1925年5月1日 - 2005年7月21日)は、日本のみちのく銀行・元会長。
[編集] 人物
北海道静内郡静内町(現・日高郡新ひだか町)生まれ。初の地方銀行と相互銀行の合併を実現させた立役者の一人とされ、みちのく銀行中興の祖ともいわれている。
大学卒業後当初は弁護士を目指して司法試験を6度受けていたとされるが、その結果がうまくいかなかったとされ、渋々当時の弘前相互銀行に入行したとされる。当時、齢32であり管理部に所属となっている。結果的には、裁判で勝訴するなど弁護士よりも銀行経営がおもしろいと感じるようになり、入行後に司法試験を受けることなくそのまま役員街道まっしぐらとなる。
1986年、唐牛敏世(頭取在任1976年 - 1979年)、葛西清美(頭取在任1979年 - 1986年)と旧・弘前相互銀行出身者主導で続いてきた頭取の後釜に入ることになる。
ロシアに積極的に進出したり、いろいろなイベントのスポンサーになったり、自らが設立した財団(みちのく文化財団)で記念館(みちのく北方漁船博物館、みちのく歴史人物資料館)などを作るなど、他の地銀とは一線を画した経営手腕には高い評価があった。また、カリスマバンカーの異名を持ち、青森県の経財界でのご意見番的な役割も果たしていた。
しかし、頭取から会長にわたる19年間の長期政権ゆえのワンマンぶりも指摘され、現みちのく銀行頭取の杉本康雄元同常務や杉本元常務とともに頭取候補となった図司俊之元同専務ら上位の役員を平然と降格させたりするなど(図司元専務は常務取締役函館支店長に降格後にみちのくユーシーカード(現・みちのくカード)社長に出向、みちのく銀行を退職し、ラグノオささき(本社弘前市)に入り専務に就任、杉本元常務は取締役古川支店長に降格後、やはりみちのくユーシーカード社長を経て、みちのくカードの社長に出向している)、通常では子会社出向だけで済むところを、自分に歯向かうという理由だけでバッサリ切り落とすスタンスには内外から批判があったとされる。また、会長就任後には増田孝介(頭取在任1997年 - 2000年)、原田和夫(頭取在任2000年 - 2005年)と側近中の側近を頭取に据えている。そして、「俺は9年で50億円儲けた」、「収益の5%をロシア事業につぎ込む」と株主総会で宣言するなどの周囲の意向を寄せ付けない空気を流していた。また、自身の娘(銀行員経験なし)を地元放送局から中途採用し、本部の管理職(人事・広報部門)に登用している。
2004年から体調を崩し、表に出ることがなかったとされるが、2005年の顧客情報紛失問題等で辞任するときも、辞表は家族が代筆して当時の原田頭取に出していたとされ、当時の内情が知らなかったとされている。そのため、当時の原田頭取が、次期頭取案と役員の総辞職を提示したときには取締役会が紛糾することになり、物言う主のない銀行の末路をさらすことになってしまった(なお、自身の娘は自身の辞職(2005年5月31日付)直前のGW中に部長職を辞し、退職している)。
また、博物館には自ら趣味とされた船に関する資料(主に青森県内・県外の支店所在地の港に関係あるもの)を集め、その収集の成果のひとつとして北前船の復元に着手させていて、2006年に復元完了予定(当初予定より早く完成し、みちのく丸と名づけられ、2005年11月10日に完成披露している)とされていたが、それを待たずに逝ってしまう形になってしまったのが本人にとって心残りではなかったのではないかと推測を呼んでいる。資料館には、青森県ゆかりの人物はもちろんのこと、唐牛敏世みちのく銀行初代頭取などのみちのく銀行関係者についての資料も納めさせている。
[編集] 略歴
- 1952年 - 東北大学法学部卒業
- 1958年 - 弘前相互銀行(現・みちのく銀行)入行
- 1969年 - 弘前相互銀行管理部長
- 1971年 - 弘前相互銀行貯蓄推進部長
- 1973年 - 弘前相互銀行業務部長
- 1973年 - 弘前相互銀行取締役業務部長
- 1973年 - 弘前相互銀行取締役東京支店長兼東京事務所長
- 1976年 - 弘前相互銀行取締役融資部長
- 1976年 - みちのく銀行取締役融資部長
- 1979年 - みちのく銀行常務取締役融資部長
- 1980年 - みちのく銀行常務取締役総合企画部長
- 1980年 - みちのく銀行常務取締役企画調整部長
- 1982年 - みちのく銀行代表取締役専務
- 1984年 - みちのく銀行代表取締役副頭取
- 1986年 - みちのく銀行代表取締役頭取
- 1997年 - みちのく銀行代表取締役会長
- 2005年 - 同職辞任