孝荘帝
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姓名 | 拓跋攸(元攸) |
年号 | 永安 528年 - 530年 |
廟号 | 敬宗 |
字 | - |
諡号 | 孝荘皇帝 |
生没年 | 507年-530年 |
在位 | 528年-530年 |
父 | 彭城武宣王勰(三男) |
母 | 李妃 |
孝荘帝(こうそうてい、507年-530年、在位528年-530年)は、北魏の第九代皇帝。第六代皇帝・孝文帝の甥。姓は元、諱は(子)攸。父は彭城王・元勰(孝文帝の異腹の末弟)で、その第三子。生母は李夫人。
[編集] 生涯
508年に父の元勰が従兄の宣武帝に誅殺されたために、幼くして孤児となったという。
528年、従子(おい)の孝明帝が生母の霊太后によって殺害されると、軍閥の爾朱栄(鮮卑の別部の奚族の酋長)は挙兵して霊太后を殺害した。そして、その爾朱栄によって新たに擁立されたのである。また、爾朱栄の娘を娶り、実権は岳父の爾朱栄が把握することになった。
このような経緯のため、北魏の実権は舅・爾朱栄の下にあり、孝荘帝は傀儡に等しかった。そのためこれを不満に思った孝荘帝は、530年にたまたま、妻の爾朱皇后が妊娠したので、この朗報を岳父の爾朱栄と義兄の爾朱菩提父子に知らせて、宮中に来た爾朱父子を誘き寄せて共に謀殺した。
だが、彼自身も間もなく爾朱栄の一族である爾朱兆・爾朱世隆・爾朱天光・爾朱仲遠らによって、皇位を廃された挙句に帝は晋陽で殺害されたのである。同時に彼と爾朱皇后との間に生まれた皇子も母子共々に、爾朱一門に惨殺されたという。
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カテゴリ: 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物 | 507年生 | 530年没