守田勘弥
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守田勘弥(もりたかんや)は、江戸の芝居小屋守田座(森田座)の座元で、後に歌舞伎役者となった。江戸時代前期から14世を数える。
- 初世(?-1678年?)
勘弥は道化方坂東太郎兵衛の子で、森田座を開いた森田三津五郎の養子となり、森田勘弥と称した。その後は、勘弥の実兄坂東又次郎が森田勘弥の名跡を相続した。
- 9世(?-?)
天保13年、死去した10世森田勘弥の代わりに森田座を再興させようと幕府に出願するが却下される。
- 10世(?-天保9年(1838年))
天保8年、負債のため森田座を休業。控え櫓の河原崎座に期限10年で興行権を譲る。大阪で病死。
4世坂東三津五郎。安政3年(1856年)、森田座改め守田座を再興。文久3年11月、死去。
喜の字屋。歌舞伎役者後に帳元中村翫左衛門の次男。幼名・寿作。18歳で守田家の養子となり、勘次郎と改名。文久3年11月、11世守田勘弥が死去したので12世守田勘弥を襲名。守田座座主を継ぐ。明治5年9月、守田座を猿若町から新富町へ移転させ、新劇場を開業させる。明治8年1月、守田座を新富座に改称。9世市川団十郎・5世尾上菊五郎・初世市川左団次ら(団菊左)を招聘し、明治時代中期の歌舞伎界を牛耳った。明治20年4月26日、歌舞伎界で初めて天皇御前の天覧芝居を催す。多くの負債と明治22年の歌舞伎座新興のため次第に没落。息子に新富座を譲る。明治30年8月21日、病死。享年52。軍医松本順と親交が深かった。
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