安藤信友
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安藤信友(あんどう のぶとも、寛文11年(1671年) - 享保17年7月25日(1732年9月13日))は、備中松山藩の2代藩主。安藤家4代。安藤重博の長男。母は戸田光重の娘。正室は牧野忠成の娘。子に安藤信易(次男)。養子に安藤信周を迎えている。養女は信周正室(長島端得の娘)、大久保忠胤正室(京極高成の娘)、藤堂高豊正室(信周の娘)がいる。官位は従五位下、右京亮。
貞享2年(1685年)、長門守に叙任。元禄11年(1698年)父の死去に伴い藩主に就任した。宝永元年(1704年)に奏者番、同6年(1709年)には寺社奉行となり右京進に改める。正徳元年(1711年)美濃国加納藩に転封され右京亮を称す。享保3年(1718年)、8代将軍・徳川吉宗から老中に任じられ、従四位下に昇る。享保の改革の推進にあたった。
享保17年(1732年)死去。次男・信易、養子・信周がいずれも没していたため、家督は信周の長男・安藤信尹が継いだ。
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