宗義調
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宗 義調(そう よししげ)は、対馬の戦国大名。宗氏の第17代当主。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文元年(1532年) | |||
死没 | 天正16年12月12日(1589年1月28日) | |||
別名 | 熊太郎(幼名)、彦七(通称)、義親(別名) | |||
諡号 | 閑斎一鴎 | |||
戒名 | 椿齢宗寿長寿院 | |||
墓所 | 厳原町日吉の長寿院 厳原町中村の太平寺 |
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官位 | 刑部少輔。讃岐守 | |||
氏族 | 宗氏 | |||
父母 | 父:宗晴康、母:宗国親の娘・明石(泉光院) | |||
妻 | 正室:立石宗佐の娘 | |||
子 | 養子:宗茂尚、宗義純、宗義智 |
[編集] 生涯
天文元年(1532年)、第16代当主・宗晴康の子として生まれる。天文22年(1553年)、父から家督を継いで宗家の第17代当主となった。弘治3年(1557年)、李氏朝鮮と通商条約を結んで貿易を拡大した(丁未条約)。この結果、宗氏の貿易における繁栄をもたらした。
永禄2年(1559年)、窪奈調親(宗将盛の異母弟)らによる謀反が起きたが、義調はこれを鎮圧して宗家の事実上の統一を成し遂げた。永禄9年(1566年)8月、家督を養子の宗茂尚に譲って隠居したが、なおも実権は掌握しており、しかも茂尚が早世したため、その弟である宗義純に継がせたが、これも早世したため、その弟である宗義智を当主として後を継がせ、義調はその後見人として政治の実権をなおも握った。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐が始まると、5月に家督に復帰して再び宗家の当主となる。そのうえで義智と共に秀吉の九州征伐に参陣したことにより、対馬を本領を安堵された。
その後、秀吉の命により李氏朝鮮と交渉を行なった。このとき、秀吉は義調に対して1年以内に朝鮮国王が日本に従属するという交渉がまとまらなければ、朝鮮に出兵するという無理難題を押しつけたとされる。このため義調は家臣の柚谷康広を朝鮮に派遣して交渉に当たらせ、秀吉の朝鮮出兵を回避するために尽力したが、天正16年(1588年)12月12日に交渉半ばで病死してしまった。享年57。
後を養子の宗義智が継いだ。