小出有重
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 寛永17年(1640年) | |||
死没 | 元禄6年5月23日(1693年6月26日) | |||
別名 | 三左衛門(通称) | |||
墓所 | 東京都港区南麻生の天真院 | |||
官位 | 従五位下、大隅守 | |||
藩 | 和泉陶器藩主 | |||
氏族 | 小出氏 | |||
父母 | 父:小出有棟 母:安部信盛の娘 |
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妻 | 正室:真田信政の娘 | |||
子 | 2男2女(小出重興、小出重昌) |
1640年、第2代藩主・小出有棟の長男として和泉で生まれる。1668年、父の死去により後を継いで藩主となる。陶器藩は1万石の小藩に過ぎなかったが、この頃には農作物や海産物に恵まれて最盛期を迎え、実質的には1万石以上の収入を得ていた。そのため、「物毎、自由叶フ」とまで称されたという。
ところがそれをいいことに、無能な有重は遊興にふけり、酒と女に溺れて贅の限りを尽くした。さらに性格が短気な上に粗暴であったため、これを諫言する家臣を処罰し、領民に対しては悪政を敷いたとまで言われている。このような悪政を次第に幕府も看過できなくなり、遂に1691年7月26日、幕府は有重の身柄を半井瑞慶に預けるという、改易では無く、大名のまま身柄だけを流罪にするという処罰を下したのである。
1692年5月9日に罪を許されて大名として復帰したが、翌年5月23日に死去。享年54。後を子の重興が継いだ。
このように暴政を重ねた経緯から、有重は「愚闇之悪大将」と評されている。
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