小十人
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小十人(こじゅうにん)は武家の番方(警備・軍事部門)の役職である。小十人の語源は扈従人であるとされる。将軍(あるいは藩主)・及びその嫡子を、護衛する歩兵を中心とした親衛隊。行軍・行列のときの前衛部隊、目的地の先遣警備隊、城中警備係の3つの役目を持つ。
[編集] 概要
小十人の役職名は、江戸幕府と、諸藩(特に大きな藩)に見ることができる。将軍(あるいは藩主)及び嫡子を警備・護衛する役職である。歩兵が主力であるが、戦時・行軍にあって主君に最も近い位置にいる歩兵であるため、歩兵でも格式が比較的高い。
江戸幕府にあっては、五番方(新番 小十人 小姓番 書院番 大番)の一つとされる。
江戸幕府小十人のヒラ番士は、旗本・御目見得の身分を持つが、馬上の資格がないと云う特徴がある。幕府の旗本は、知行200石以上の家柄であるのが、通例であるが、小十人番衆(ヒラ番士)は、家禄100俵(石)級から任命されることが多く、小十人の役職に就任すると、原則として10人扶持の役料が付けられた。知行になおすと計120余石となる。
登城する際は、徒歩で雪駄履き、袴着用で、槍持ちと、小者の計2名を従えた。
小十人のトップは、小十人頭(あるいは小十人番頭)であり、主に1,000石以上の大身旗本から選ばれた(足高の制による役高は1,000石)。
中間管理職として、小十人組頭があった(役高300俵)。小十人組頭は、将軍外出予定地の実地調査のための出張をしばしば行った。
小十人の頭(番頭)・組頭は、云うまでもなく馬上資格を持った。
時代によって異なるが、江戸幕府には概ね小十人頭は、20名、小十人組頭は、40名、小十人番衆(ヒラ番士)は、400名がいた。
平時にあっては、江戸城檜之間に詰め警備の一翼を担った。小十人は、泰平の世にあっては将軍が日光東照宮、増上寺、寛永寺などに参拝のため、江戸城外に外出するときが、腕の見せ所であり、繁忙期であった。
将軍外出時には、将軍行列の前衛の歩兵を勤めたり、将軍の目的地に先遣隊として、乗り込んでその一帯を警備した。
江戸時代初期や、幕末には、小十人が将軍と共に京・大坂に赴き二条城等の警護にもあたった。
江戸時代初期には、譜代席の御家人(御家人の上層部)の中で、優秀な者・運の良い者(あるいはその総領)は、小十人となり、旗本に班を進めた者もいた。
泰平の世となると、番方は家柄優先の人事が行われていたので、将軍通行の沿道警備役の御家人から、小十人に直接抜擢された例はほとんどなく、勘定・広敷その他、役方(行政職・事務職)の役職から旗本に抜擢された者(あるいはその総領)が、論功として小十人になることがあった。