小川破笠
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小川 破笠(おがわ はりつ・・・寛文3年(1663年) - 延享4年(1747年))は、江戸時代の漆芸家。画家。俳人。本名は「小川尚行」か。別名を金弥、平助。俳号 宗羽(宗宇)。「小川観」、夢中庵とも。
英一蝶らと同じ、伊勢国の人らしい。江戸の生まれ説もある。 俳諧師として知られ、当初福田露言に俳諧を学んだが、のち松尾芭蕉の門に入る。画の流派は土佐派、狩野派など諸説あるが不詳。 当時江戸で人気のスター絵師英一蝶との交流で知られており、1730年には共同作品(「父の恩(ちちのおん)」二世市川團十郎・編 一蝶&破笠・画)を発表している。 青年期は芭蕉庵に出入りし、芭蕉や宝井其角、服部嵐雪といった弟子ら、その他芭蕉周辺に出入りする人々(一蝶ら)との親しい交流があったらしく、天和3年(1683年)には其角が堀江町から芝に転居した際、嵐雪と一緒についていき、同居。皆で蕉門の初期代表句集「虚栗」を編纂した。 芭蕉の死後(元禄7年(1694年))以降10年ほど、一旦足取りが途絶える。 元々多用な趣味(実益?)を持っていた彼だが、享保の頃、50歳過ぎから漆芸を始めたらしく、再度世間に登場する。
最晩年、師匠であった芭蕉の肖像画を描いているが、芸術性云々以前に絵の腕が確かな、実際に芭蕉と親しく接していた者による肖像画という意味でも貴重なものである。 延享4年(1747年)没、85歳。
現代的な評価では「小川破笠といえば江戸時代の漆芸家」とされる。
[編集] 作風(漆芸作品)
蒔絵に鉛・金・銀・銅・鉄・陶器片・象牙・ギヤマン(硝子)など、多種多様な美しい異物を混然と嵌入して、時にはその上にさらに蒔絵を凝らす、という彼独自の、いわゆる破笠細工(笠翁細工)を生み出し、派手好みだった当時の人々に大歓迎を受けた。鉛の使用は本阿弥光悦らにもみられるが、作風は光悦の侘び寂びとした純和風に対し、かなり異国風(中国趣味)が感じられる。 ただし、当時から人気作家だったため、本人が手がけた作品以外にも、彼の工房製つまりは弟子の手による作品も「破笠細工」として流通している。また、近代になって欧米にて評価が高くなったため、輸出目的で製造された明治以降の職人の手による「破笠風に作られた新作」も多い。
[編集] 津軽家との出会い
享保8年(1723年)、漆芸を始めてしばらくした頃であろう。縁あって陸奥国弘前藩主・津軽信寿の知遇を得た。津軽家の屋敷は現在のJR錦糸町駅付近にあり、破笠の活動領域であった本所深川あたりとはさほど遠くない距離にあった。(分家黒石藩の屋敷は本所にあった) この「津軽様の贔屓」という肩書きが、破笠の人気、名声に拍車をかけ、彼はたちまち江戸で人気の工芸作家になったと言われている。