尤袤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
尤袤(ゆう ぼう、1125年(宣和7年) - 1194年(紹熙5年))は中国・南宋時代の高官・詩人。字は延之。范成大・陸游・楊万里とならび、南宋四大家と称される。
[編集] 略伝
常州無錫(江蘇省)の出身。若いときから文才があり律詩に長じていた。太学に入り、1148年に進士になる。その後政治の才能を見いだされて、淮東・江東などの提挙常平使から累進し、太常少卿となったが高宗が崩じたので礼官とともに廟号を決定し、「高宗」と称するようになったという。礼部侍郎に修国史侍講を兼ね、孝宗の時代の終わりには権中書舎人に直学士を兼ね、大いにその才識を期待された。しかし、高官の昇進が法に適わないことを指摘して周必大の党とみなされて斥けられ一時は退官したが、1190年に知婺州となり知太平州をへて、給仕中・礼部尚書へと昇進した。光宗の心疾が篤く政治を顧みないことを憂えて、自らも病を得て没する。金紫光禄大夫を追贈された。1212年に寧宗により文簡と諡された。
[編集] 学問と詩
尤袤は若いときは喩樗と汪應辰について学んだが、喩樗は程頤の高弟であった楊時の弟子にあたる。その書室を遂初堂といい、蔵書家としても知られていた(『遂初堂書目』)。著に『遂初小稿』60巻・『内外制』30巻・『梁谿集』50巻があったがすべて失われ、清代に劇作家の尤侗によって『梁谿遺稿』1巻が編まれたが、原本の百分の一に過ぎないという。
その詩は方回によって「嬌淡細潤」「端荘婉雅」と評され、『四庫提要』によると「断簡しか残らなかったが范・陸・楊の三大家に拮抗する」という。
落梅 | |
清溪西畔小橋東 | 清溪の西畔 小橋の東 |
落月紛紛水映空 | 月に落ちて 紛紛 水空を映す |
五夜客愁花片裡 | 五夜の客愁 花片の裡 |
一年春時角聲中 | 一年の春時 角聲の中 |
歌残玉樹人何在 | 歌は玉樹に残するも 人何くにか在る |
舞破山香曲未終 | 舞は山香を破るも 曲未だ終わらず |
卻憶孤山酔帰路 | 卻って憶う 孤山酔帰の路 |
馬蹄香雪襯東風 | 馬蹄の香雪 東風に襯せしを |
[編集] 参考
- 『宋史』列伝第148