山椒魚 (小説)
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『山椒魚』(さんしょううお)は、井伏鱒二の短編小説。原題は1923年に発表した「幽閉」。改作し1939年「文芸都市」に発表。
岩屋から出られなくなってしまった山椒魚を描く。滑稽さの中にある悲哀が光る処女作。1985年、自選全集に収録する際、作者が終結部を削除し話題を呼んだ。
[編集] あらすじ
うっかりして棲家の岩屋から出られなくなった山椒魚は、穴の外の景色を眺めて暇をつぶすが、自由を奪われたと知り悲歎にくれる。あるとき岩屋に迷い込んだ蛙を見て嘲り、言い争いになるが、もはや岩屋から出るのはあきらめるしかなかった。
[編集] 1985年の改変論争
1985年、『井伏鱒二自選全集』(新潮社)に収録する際、井伏はこの作品の末尾「ところが山椒魚よりも先に~おこってはゐないんだ」の部分を全て削除してしまった。この件に関しては当初、文壇のみならず各方面から非難が集中した。しかし現在は、これに関しては批判ばかりではなく様々な意見が出ている状態である。以下に主なものを引用する(一部改)。
- …いったい小説の場合、書く、それが発表されるとするなら、さまざまなチェックが行われる。(中略)これが教科書に採用されることもある。もはや、読まれたということによって、読者の血肉と化しているのだ。そうじゃありませんか。(中略)だから、井伏さんが、どこをどうお直しになろうと、そりゃ御自由、文学者としての御良心でございましょう。しかし、これまで「山椒魚」を読んだ人間はどうするのですか。(中略)「山椒魚」は、もはや書き手を離れているのではありませんか、もし、こんなことが作家の良心のあらわれというのなら、それまでの読者はどうなるのか、ひとりよがりもいい加減にしていただきたい(後略)…
- 古林尚「偏執狂めいた加筆訂正魔 「井伏鱒二自選全集」(全12巻)の問題点」…出典:「週刊読書人」1985年12月9日
- …配本された第一巻を開いた時には、率直に言って唖然とした。(中略)驚いたのは「山椒魚」の末尾のあの印象深いやり取りの個所がバッサリと削られて、影も形もなくなっていたのである。私は思わず無慙、無謀と口走った。これは、もはや改訂というような生易しいシロモノではない。(中略)消滅したのでは、山椒魚と蛙の関係は単なる<いじめ>の問題に縮小されてしまう。(中略)それに気がかりなことがひとつ。「山椒魚」は現在、中学校用の国語教科書に手広く掲載されているが(中略)教科書側が旧版の「山椒魚」に固執したら、いったいどうなるのであろう。
- …私は、野坂氏の考えの基本には従いたいと思う。しかし、今度の『山椒魚』の改稿に関して言えば、野坂氏の意見からは遠い。野坂氏の考え方の基本を、もうちょっと徹底させたところに私の見解は成り立つとでも言えばいいか。(中略)これまでの『山椒魚』と今度の『山椒魚』と、われわれはふたつの『山椒魚』を持ったことになりはしないか。読者は読み比べて、どちらか好きなほうを選べばいい。そう考えるのは間違っているだろうか。
- 戸松泉「注釈としての<削除>―「山椒魚」本文の生成について―」…出典:「日本近代文学」2003年10月
- …つまり、井伏氏が自選全集に収録する際に、ばっさり末尾部分を<削除>したのは、読者の「誤読」の山(筆者注:末尾に山椒魚と蛙との和解を読み取る数々の論文・評論。これらの論評が正しいかどうかはここでは問わない)にうんざりしたからではないか、などという仮説である。井伏は、<削除>という行為によって、読者の「山椒魚」の読みへの<注釈>を加えたのではないか、という仮説である。(中略)作家が己の作品を守るとは、こうした行為としてあるのか、という気の遠くなるような情熱の強さである。