岡田可愛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
岡田 可愛(おかだ かわい)、1948年10月19日 - )は、昭和時代の女優である。現在は、アパレル関係の仕事をしている。青蘭学院高等学校(現青稜高等学校)卒。
目次 |
[編集] 来歴・人物
大阪府生野区に六人兄弟の末っ子として生れる。名前は可愛いという意味ではなく「可レ愛」(愛される可し)、つまり人に愛されるようにという意味で名づけられた。父親の事業の失敗などで小学校4年の大晦日に一家で東京へ移り住む。小学校6年の時に一番上の姉によって児童劇団へ入れられる。子役時代はオーディション合格率100パーセントだった。NHK教育テレビの生放送「マッチ売りの少女」がデビュー作。木下恵介監督作品のオーディションにも受かったが、北海道ロケで家を離れるのが嫌で断ったこともあった。1962年、中学2年の時に吉永小百合主演『キューポラのある街』(日活)で映画デビュー。本名の可愛をそのまま芸名とした。
続いて東宝の社長シリーズに主演の森繁久弥の娘役として出演し、助監督だった松森健がテレビドラマ『青春とはなんだ』(日本テレビ)で監督デビューする際に女生徒役として推薦される。夏木陽介主演のこのドラマは大人気となり、お転婆で明るい女生徒・松井勝子を演じた岡田可愛も一躍お茶の間の人気者になる。結局、シリーズ化された青春学園シリーズに連続4作一度も休むことなく延べ132本に出演した。最後の『進め!青春』終了時には皆勤賞を貰っているが、著書『失敗なんて怖くない』によれば、実は、自立して生活していたため1回でも出演回がないと給料に響くため監督に頼み込んで無理やりシーンを作ってもらっていたという。
1969年、女子バレーボールを扱ったスポーツ根性ドラマ『サインはV』(TBS)の主役・朝丘ユミに抜擢される。この作品はあらゆる層から支持される国民的人気ドラマとなり、人気を不動のものにする。その後も数多くのテレビドラマ、映画に出演していたが、結婚して子どもが生まれたのを機に女優業を休止し、子ども服を中心としたアパレル業についている。休業中もとんねるずの番組などにゲスト出演することもあった。
[編集] 出演作品
[編集] テレビドラマ
- 青春とはなんだ(1965年-1966年、日本テレビ):松井勝子
- これが青春だ (1966年-1967年、日本テレビ):本橋安江
- でっかい青春(1967年-1968年、日本テレビ):松葉愛子
- 進め!青春(1968年、日本テレビ):熊木愛子
- サインはV(1969年-1970年、TBS):朝丘ユミ
- 大江戸捜査網(1)(1970年-1971年、東京12チャンネル):山猫のお七
- おひかえあそばせ(1971年、日本テレビ):四女・菊枝
- 大江戸捜査網(2)(1972年-1973年、東京12チャンネル):山猫のお七
- 愛の山河 (1974年、日本テレビ)
- なぞの転校生(1975年、NHK):大谷先生
[編集] 映画
- キューポラのある街(1962年4月8日、日活):カオリ
- 社長外遊記 (1963年4月28日、東宝):三女・はるみ
- 続社長外遊記(1963年5月29日、東宝):三女・はるみ
- 死闘の伝説(1963年8月4日、松竹)
- 社長紳士録 (1964年1月3日、東宝):長女・洋子
- 続社長紳士録(1964年2月29日、東宝):長女・洋子
- 花咲く乙女たち(1965年1月24日、日活)
- 未成年 続キューポラのある街(1965年4月29日、日活):アイ子
- 青春前期・青い果実(1965年5月16日、日活)
- これが青春だ!(1966年12月17日、東宝):佐々愛子
- 社長繁盛記(1968年1月4日、東宝):はるみ
- 続社長繁盛記(1968年2月24日、東宝):(クレジットのみで未出演)
- 兄貴の恋人(1968年9月7日、東宝)
- フレッシュマン若大将(1969年1月1日、東宝):大島昌子
- 社長えんま帖(1969年1月15日、東宝):娘・春江
- 二人の恋人(1969年4月12日、東宝)
- 続社長えんま帖(1969年5月17日、東宝):娘・春江
- ニュージーランドの若大将(1969年7月12日、東宝):大島昌子
- コント55号 人類の大弱点(1969年8月13日、東宝):大島幸子
- 赤毛(1969年10月10日、東宝):お袖
- 野獣都市(1970年5月23日、東宝):みゆき
- サインはV(1970年7月18日、東宝):朝丘ユミ
- 樺太1945年夏・氷雪の門(1974年8月17日、東宝):斎藤夏子(電話交換手)
[編集] 著書
- 岡田可愛著『失敗なんて怖くない』(KSS出版、1998年)ISBN 4-87709-289-7