島田叡
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島田 叡(しまだ あきら、1901年12月25日 – 1945年6月27日?)は、沖縄県最後の官選知事。兵庫県神戸市出身。
[編集] 来歴
開業医・島田五十三郎の長男として生まれる。旧制神戸二中(現・兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年東京帝国大学法科に入学。中学・高校・大学と野球に熱中し、東大時代はラグビー部とも掛け持ちするなどスポーツマンであった。
東大卒業後、1925年内務省に入省する。主に警察畑を歩み、大阪府内務部長を務めていた1945年1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。各官庁と折衝すると称して東京に出張していた前任者の泉守紀(軍人嫌いの泉は事あるごとに軍部と衝突し、政府の県民疎開の方針に公然と反対した為疎開は立ち後れ、10・10空襲に際しては県庁に出張せず終始防空壕に避難し、空襲後はいち早く那覇から脱出するなど警察部を除く県政に大きく支障をきたしていた。)に出張中にも係わらず香川県知事の辞令が出され、沖縄への米軍上陸は必至と見られていた為に後任者の人選が難航しており、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん」と言い残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。
1月31日赴任すると、沖縄駐留の第32軍との関係改善に努め、前任者の元で遅々として進まなかった北部への県民疎開や食料の分散確保等、喫緊の問題を迅速に処理していった。2月下旬には台湾に飛び、交渉の末蓬莱米3000石分の確保に成功、翌3月に那覇に搬入された(従前の文献には「米軍の攻撃が激しくなり、現物は届かなかった」と記述されている場合があるが、田村洋三『沖縄の島守』によればこれは誤りである)。県民は知事に対し、深い信頼の念を抱くようになった。
3月に入り空襲が始まると、県庁を首里に移転し、地下壕の中で執務を始めた。以後沖縄戦戦局の推移に伴い、壕を移転させながら指揮を執っていた。軍部とは密接な連携を保ちながらも、およそ横柄なところのない人物で女子職員が洗顔を勧めると「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」といい、他の職員と同様、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭っていた。
6月9日、同行の県職員・警察官に対し、「どうか命を永らえて欲しい」と訓示し、県及び警察組織の解散を命じた、その後6月26日、荒井退造警察部長とともに摩文仁(糸満市)の壕を出たきり、消息を絶った。「足を負傷して横臥している知事と会い、翌日壕を訪ねると拳銃で自決していた」という元兵士の証言(田村洋三『沖縄の島守』より)もある。
島田の殉職の報に際して1945年7月9日に安倍源基内務大臣(当時)は行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈り「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」と称え、内務大臣が一知事に対し賞詞を授与することは前例がなかった。
1951年、県民からの浄財の寄付により、島田をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑として、摩文仁の丘に「島守の塔」が建立された。
未だに高校野球で夏の県大会を制した高校に「島田杯」が授与されることを見ても、いかに島田知事が県民に敬愛されていたかが分かる。
[編集] 参考文献
- 田村洋三『沖縄の島守 内務官僚かく戦えり』
- (中央公論新社、2003年) ISBN 4120033902
- (中公文庫、2006年) ISBN 4122047145
[編集] 外部リンク
- 合掌の碑 (兵庫県立兵庫高等学校)
- 嶋田叡墓所 (東京都多磨霊園)