市川小團次 (4代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
四代目市川小團次(よだいめ いちかわ こだんじ、文化9年(1812年)1月 - 慶応2年5月8日(1866年6月20日))は幕末の歌舞伎役者。「泥棒小團次」の異名をとった名優。本名は高島屋栄太。俳名は米升。屋号は高島屋。
目次 |
[編集] 生立ちから修業時代
父は江戸市村座の火縄売り高島屋栄蔵。母かね。江戸日本橋に生まれる。魚問屋本牧屋に奉公するが1820年(文政3年)、母の失踪がもとで職を去り、芝居の世界に入る。市川伊達蔵門人で市川米蔵となる。(七代目市川團十郎門人の説もあり。)松阪伊勢から名古屋方面の子供芝居に出演。実父と分かれ孤独の中で修業する。まさにどん底からのスタートで、若き俳優は歯を食いしばって勤めた。
[編集] 米十郎時代
1832年(天保3年)市川米十郎と改名(1830年説もあり)。金沢・名古屋の興行から大阪の中ウ芝居に出演。1842年(天保13年)秋、先輩格の俳優に蹴飛ばされ梯子から転落する事件が起る。このため一座を退座し「今に舞台で見返してやる。」と発奮する。義太夫狂言の演出をみっちりしこまれ、二代目尾上多見蔵、嵐三津五郎などに師事する。とくに多見蔵からはケレン芸を教えられた。このころ、『義経千本桜・四の切』で狐忠信を演じた時、義太夫の伴奏者の三味線の胴から抜け出すケレンを演じ好評を得たが、睾丸を擦り剥いて負傷しばらく休場するという挿話が伝わっている。文字通の身体を張っての熱演ぶりは、3代目中村歌右衛門没後、次のスターを求める劇場関係者にとって有望な若手と写った。次第に大きな劇場の出演依頼が来るようになり、長い期間の苦労が報われる時がきた。この大阪の米十郎時代が名優小團次の芸を作り出す時期でもあった。
[編集] 小團次襲名から江戸下り
1843年(天保14年)、天保の改革で江戸を追われた師匠の七代目市川團十郎(当時は市川海老蔵と改名)が来阪。師の庇護を受け、1844年(弘化元年)、大阪角の芝居で四代目市川小團次を襲名。『けいせい石川染』の奴矢田平の立ちまわりが大好評となる。このとき共演した名優五代目市川團蔵からも賞賛を受ける。こうして人気と実力のついた小團次は、満を持して1848年(弘化5年)江戸に下り、大阪じこみのケレン芸や舞踊で人気を集める。
1851年(嘉永4年)正月、『石川五右衛門』の葛篭抜けや宙乗り、8月の『東山桜荘子(佐倉義民伝)』の佐倉宗吾でのリアルな演技、そして八代目市川團十郎と組んだ1853年(嘉永6年)3月の『切られ与三』での観音久次役と次々とヒットと飛ばす。
小柄で口跡も悪く、「鬼瓦」と揶揄されるほど風采の上がらない容貌だったが、努力と工夫とで着々と実績を積み 、八代目団十郎の死後、師匠筋の市川宗家の後見人となるなど、名実とも江戸を代表する役者であった。
[編集] 黙阿弥との出会い
1854年(安政元年)3月、江戸河原崎座の『都鳥廓白浪』で小團次は河竹新七(のちの河竹黙阿弥)とはじめて出会う。以降、小團次・黙阿弥の提携による一連の名作が作られる事になる。
主なものに
- 蔦紅葉宇都谷峠の文弥、仁三 1856年(安政3年)9月 市村座
- 鼠小紋東君新形の稲葉幸蔵 1857年(安政4年)正月 市村座
- 網模様灯篭菊桐の小猿七之助 1857年(安政4年)7月 市村座
- 小袖曽我薊色縫の清心 1859年(安政6年)正月 市村座
- 三人吉三廓初買の和尚吉三・文里 1860年(安政7年)正月 市村座
- 加賀見山再岩藤の岩藤・鳥居又助 1860年(安政7年)3月 市村座
- 勧善懲悪覗機関の村井長庵・久八 1862年(文久2年)8月 守田座
- 曽我綉侠御所染の百合の方、五郎蔵 1864年(文久4年)2月 市村座
などがある。
これらの作品には、当時の騒然とした世相を背景として、全般に盗賊の役が多い。それも大泥棒でなく市井の片隅に生きる人間くさい盗賊であった。研究熱心な小團次はさまざまな工夫を凝らし、名もない人々の喜怒哀楽をリアルに演じた。彼が愁嘆場で熱演のあまり泣出すと観客までももらい泣きをするほどであった。黙阿弥はそんな小團次の柄に合うように優れた作品を作った。 また、旧作では『勧進帳』の富樫や『天下茶屋』の弥助・元右衛門・『吉野山』の狐忠信・『絵本大功記』の光秀・『菅原伝授手習鑑・寺子屋』の松王などを得意とし、『櫓のお七』では娘役の八百屋お七を人形振りで演じ、その可憐さに観客を驚嘆させた。
舞踊のテクニックや早替り宙乗りなどのケレン芸にとどまらず、立役・老役・女形・敵役などどんな役でもこなす演技力をつけていた。当時の流行歌には「にがほはと豊国、やくしやは小團次 ハイヨ とうじさくしやは みなさん、川竹、ひいきはたいそ、たいそ」とあり、役者絵の三代目歌川豊国・黙阿弥・小團次は、江戸市民のアイドルであったことが伺われる。
後進の指導にも熱心で、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎、七代目市川團蔵など明治期の名優は多かれ少なかれ小團次の影響を受けている。
[編集] 最期
1866年(慶応2年)3月、北町奉行所より「近年、世話狂言、人情を穿ち過ぎ、風俗に拘る事なれば、以来は万事濃くなく色気なども薄くするやう」という趣旨の申し渡しが劇場関係者に下された。
小團次は守田座で『船打込橋間白浪』の鋳かけの松五郎に出演中、体調を崩して自宅で静養中であったが、このことを報告した親友黙阿弥の証言では「…小團次の面色見る見る青筋張り、こめかみピクピク動いて床の上に起上がり『え、そんな事ですか。それじゃあこの小團次を殺して仕舞ふやうなものだ。ネエお前さん、モット人情を細かに演て見せろ、モット真個のやうに仕組めと云ってこそ芝居が勧善懲悪にもなるんぢゃあ有りませんか。見物が見につまされないやうなことをして芝居が何の役に立ちます。私は病気が助かっても舞台の方は死んだやうなものだ。…』」と怒りに身体を震わし「一夜の内に面も痩せ、目もくぼんで翁(黙阿弥の事)の顔を見て『どうも詰まらねえことになったもんだ。』と凄い笑みを漏らせしが、これより病革りて死したるなり、」とある。文字どおりの憤死であった。
辞世は「ほととぎす 見果てぬ夢をさましけり」。墓所は池上本門寺。
[編集] その他
子には、実子に大阪で活躍した初代市川右團次、明治期に活躍した五代目市川小團次、養子には明治の名優初代市川左團次・初代市川荒次郎がいる。
性格は謹厳実直で、質素な服装を通し、道行く誰にでもきちんと被っていた笠を脱いで挨拶をした。楽屋でも渋面をして布団も敷かずに正座しつづけており、実子の行儀が悪いと横面を張り飛ばしたというほどであった。癇が強く、最期を早めたのもそのせいではないかと見られる。
少年時代から筆舌にし難い辛苦をなめてきたので、勢い内向的な性向になった。
妻のお琴は男勝りの女傑で、よく家をまとめ、夫の成功に尽くし息子たちを一人前の役者に育て上げた。小團次は帰宅するといつも舞台のストレスを家人にぶつけて八つ当りする。、かといって面と向かって注意する事も出きず、みんな困っていた。有る日、お琴は、小團次の眼前で、顔色ひとつ変えず夫が大事にしていた鉢植えを叩き割ってしまい、流石に小團次もすごすごひきさがったという。このようなエピソードの多い女性なので、「国定忠次の妾」と噂された。