布袋尊
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布袋尊(ほていそん)とは、日本では七福神の一柱であるが、元来は中国唐末の明州(浙江省)に実在したとされる異形の僧・布袋(ほてい)のことである。本来の名は、釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから付いた俗称である布袋という名で知られる。
四明県の出身であるという説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである、大きな袋を常に背負っており、僧形であるにもかかわらず、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
或いは、雪の中で横になっていても、布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかったとか、人の吉凶を言い当てたとかいう類いの逸話が伝えられる。もう一つ、彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
その最期も、不思議な終わり方であり、仙人の尸解に類している。天復年間に、奉川県で亡くなり、埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。
中国では、その後、弥勒仏の姿形は、日本の布袋の姿形となり、寺院の主要な仏堂の本尊に、弥勒仏として安置されるのが通例となった。日本でも、黄檗宗の本山萬福寺で、三門と大雄宝殿の間に設けられた天王殿の本尊として、四天王や韋駄天と共に安置されている布袋尊形の金色の弥勒仏像を見ることができる。 また西欧人にこの像は、マイトレーヤ(Maitreya 弥勒)と呼ばれる。
なお、布袋尊を、禅僧と見る向きもあるが、これは、後世の付会である。『宋高僧伝』では、巻21の「感通篇」に「唐明州奉化県釈契此」という名で立伝される布袋尊の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋尊と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって、『景徳傳燈録』の巻27、「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智ギ、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。