平岩外四
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平岩外四(ひらいわ がいし、大正3年(1914年)8月31日-)は、愛知県常滑市出身の財界人、経営者。東京電力会長、第7代経団連会長(在任、平成2年(1990年)12月21日-平成6年(1994年)5月27日)。財界随一の読書家として知られる。2006年秋の叙勲にて桐花大綬章を受章。
[編集] 来歴・人物
6歳で父親を亡くし、母親に育てられる。愛知七中入学祝に母親から夏目漱石全集を贈られる。一族から大学進学を反対されるが、母親が反対を押し切り、東京帝国大学法学部へと進ませてくれた。昭和14年(1939年)に大学を卒業。東京電灯(現在の東京電力)に入社した。しかし、昭和16年(1941年)に陸軍に召集される。配属されたニューギニア戦線でジャングルを敗走し、飢えと熱病のため、平岩のいた隊は107名中、最後には生存者7名という地獄の体験をする。この体験は、平岩に人生を達観させる契機となった。終戦後、会社に戻り、そこで木川田一隆の目にとまり、平岩は木川田を「経営についても人生についても終生の師」と尊敬するようになる。昭和51年(1976年)10月東京電力社長に就任する。昭和59年(1984年)6月社長を退き、会長に就任。
財界活動では、昭和53年(1978年)に経団連副会長に就任。早くから、将来の経団連会長と嘱望されていたが、昭和61年(1986年)の経団連会長人事の際、新日本製鉄社長の斎藤英四郎に会長の座を譲った形となり、無欲さを賞賛された反面、財界には平岩人気から一部に不満が残った。平成2年(1990年)経団連会長に就任。就任早々、証券金融スキャンダルを受けて経団連企業行動憲章を制定し、企業モラルの確立を図った。また、バブル経済崩壊後の景気低迷を受けて、対日直接投資拡大、輸入促進ならびに輸入関連規制緩和のための緊急提言を行ったり、「アジア隣人会議」を開催してアジア経済の一体化、投資促進などを各国の経済界代表とともに話し合った。平成6年(1994年)5月27日に会長職を退任し、名誉会長に。平成14年(2002年)9月にはいったん退いたが、平成18年(2006年)4月に復帰した。
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