廃帝イク (南朝宋)
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廃帝昱(はいていいく、463年 - 477年、在位472年 - 477年)は、中国の南北朝時代の宋の第7代皇帝。宋に廃帝と呼ばれる皇帝は5代皇帝の廃帝子業と二人いるので、後廃帝(こうはいてい)とも呼ばれる。姓は劉、名は昱、字は德融、幼名は法師。第6代皇帝明帝の長子。
父の死によりわずか9歳で即位した。しかし、母親が明帝の后となる前は李道兒の妾であったことから、李道兒の子であるという噂が絶えなかった。474年には桂陽王の劉休範が反乱を起こすが、蕭道成により鎮圧される。その他にも、彼を廃立しようと何度も反乱が起こっている。
劉昱は残虐な性格であり、幼き頃から自分の命令に従わないものは殴打するという調子だった。皇帝に即位したのちも、殺人を好み、毎日のように街に出ては自ら凶器を持ち歩いて手当たり次第に人を殺し、殺人をしなかった日は悶々としていたという。ある時、ニンニクばかりを食べている将軍の腹はニンニク臭いのかを調べるために将軍の腹を割いたり、たまたま通りかかった妊婦の腹が気になり切り裂こうとしたり(これは医師の徐文伯という人物が針治療により早産に成功し未遂に終わった)と子供ながらにして残虐を極めた人物であった。また、4代皇帝孝武帝の28人の子供のうち、父の明帝が16人を殺していたが、彼が残り12人を全員殺した。中国史上屈指の暴君とされている。(ただし、宋簒奪を正当化するために暴虐ぶりが誇張されている可能性はある)
しまいには蕭道成の腹を矢の的にしようとする始末で、結局、蕭道成の手により15歳で殺された。死後、蒼梧王に落とされている。
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