廖仲愷
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廖 仲愷(りょう ちゅうがい、1877年 - 1925年8月20日)は、中華民国の政治家。仲愷は字で、名は恩煦。
アメリカ合衆国・サンフランシスコに広東省出身の華僑の家庭に生まれる。1893年に帰国し1902年に日本に留学、早稲田大学予科から中央大学を卒業。1905年に中国革命同盟会に加入し、孫文と親交を結ぶ。辛亥革命の後に広東都督府総参議・理財政となるも、1913年に孫文と共に日本へ亡命。翌年には中華革命党結成に参加し、財政部副部長となる。袁世凱が帝政復活を策すると、これに反対し護法運動を主導した。1919年に革命党は中国国民党に改組され、翌年国民党は広州に革命政府を樹立。廖も財政部次長となった。その後、中国共産党との第一次国共合作を主導、党中央執行委員・財政部長・工人部長・農民部長・黄埔軍官学校党代表を歴任。連ソ・容共を唱える左派として活動したが、反共を唱える戴季陶・胡漢民らの右派と対立した。1925年8月20日に暗殺される(この暗殺には胡が裏で手を引いていたと言われている)。
妻の何香凝は画家で国民党左派として活動の後、全国人民代表大会常務委員会副委員長を歴任した。娘の廖夢醒、息子の廖承志は共産党で活動し、承志は中央対外連絡部部長として高碕達之助と共に中日長期総合貿易覚書(LT貿易覚書)を取りまとめた。