当摩広麻呂
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当摩広麻呂(たいまのひろまろ、生年不明 - 天武天皇14年(685年)5月19日)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は当麻とも書き、たぎまとも読む。旧仮名遣いでの読みは同じ。姓(カバネ)は公、後に真人。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)側についた。675年に朝廷への出入りを禁じられた。贈直広参。
『日本書紀』が壬申の乱について記すくだりに当麻広麻呂の名は見えない。死亡時の贈位記事によって功があったことが知られるだけである。
天武天皇4年(675年)4月8日に、当摩広麻呂と久努麻呂は、天皇によって朝廷への出仕を禁じられた。理由は不明である。後に許されたと思われるが、その記述はない。広麻呂のこのときの姓は公、位は小錦上であった。
当麻公は、天武天皇13年(684年)10月1日の八色の姓制定の日に、真人の姓を与えられた。
天武天皇14年(685年)5月19日に当麻真人広麻呂は直広参の位で死んだ。壬申の年の功によって、直大壱の位を贈られた。