忌部神社
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忌部神社 | |
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所在地 | 徳島県徳島市二軒屋町2丁目48 |
位置 | 北緯34度03分37秒 東経134度32分44秒 |
主祭神 | 天日鷲命 |
社格等 | 式内社(名神大)・国幣中社・別表神社 |
例祭 | 10月19日 |
忌部神社(いんべじんじゃ)は、徳島県徳島市にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は国幣中社。
[編集] 祭神
阿波忌部氏の祖神である天日鷲命を祀る。天日鷲命は、『古語拾遺』によれば天照大神の岩戸隠れの際に天太玉命に従って穀木綿(かじゆう)を植えて白和幣を作った神となっている。
[編集] 歴史
神武天皇の時代、忌部氏が天富命に率いられて阿波国に派遣され、そこで祖神として天日鷲命を祀ったのに始まると伝える。大嘗祭の際には穀木綿で作った荒妙御衣(あらたえみそ)を献上するのが常となっていた。延喜式神名帳では「阿波国麻殖郡 忌部神社」と記載され、名神大社に列している。しかし、中世以降、兵火により所在が不明となっていた。
近世以降、複数の神社が式内・忌部神社を主張するようになった。明治4年(1815年)、忌部神社は「所在地不明」のまま国幣中社に列格された。国学者小杉榲邨の考証により、明治7年(1874年)、麻植郡山崎村(現 吉野川市山川町山崎)の忌部神社が、式内・忌部神社の後裔であるとされた。これに対して美馬郡西端山(現 つるぎ町貞光)の五所神社が式内・忌部神社の後裔であるとする意見が出され、激しい論争となった。延喜式神名帳に記載される忌部神社の所在地は麻殖郡であるが、西端山側は、『阿陽記』などの地誌によれば、西端山は延喜式の時代には麻殖郡であり、後に美馬郡になったとしている。結局、小杉榲邨の考証は却下され、明治14年(1881年)、五所神社が式内・忌部神社と決定された。しかし、これに山崎側が反発したため、太政官は妥協策として徳島市内に新たな社地を定めるという通達を出した。明治18年(1885年)、眉山中腹の現在地が社地に定められ、それに隣接する郷社・金刀比羅神社に仮遷座した。明治25年、社殿竣工により現在地に遷座し、五所神社は忌部神社の境外摂社と定められた。
[編集] 外部リンク
- 忌部神社(玄松子)