憲政党
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憲政党(けんせいとう)は、明治時代の日本の政党である。1898年(明治31年)、板垣退助の自由党と、大隈重信の進歩党が藩閥政府に反対するために合同してできたもの。
1898年6月30日、大隈を総理大臣、板垣を内務大臣とする日本最初の政党内閣「隈板内閣」を成立させるが、反政府のみを目的とする自由党と進歩党の大同団結によって成立した政党であるため、政策や路線をめぐり内部において旧自由党系と旧進歩党系の対立が絶えなかった。
8月22日、尾崎行雄文相が帝国教育会で行った所謂共和演説事件が起った。これにより両派の抗争に拍車がかかり、これにより、尾崎は文相辞任のやむなきに追い込まれ、大隈はその後継として自派、すなわち進歩派の犬養毅を奏薦したことによって両派の対立はついに頂点に達した。
その後まもなく、星亨が中心となり、自由党領袖会議で憲政党解党をクーデター同然に決議した。その後、旧自由党系の憲政党と旧進歩党系の憲政本党に分裂したが、憲政党は1900年、伊藤博文を中心とする立憲政友会に合流し、その母体となった。