拓跋力微
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
拓跋 力微(たくばつ りきび、175年 - 278年)は 鮮卑族拓跋部の首長。拓跋詰汾の次男。玄孫の拓跋珪が北魏を建国すると、高祖父の偉業を称えて、始祖・神元皇帝と追尊された。
220年に父の跡を継ぐ。
258年、部衆を率いて盛楽城に移り、夏には天を祭り周辺の諸部を従わせている。261年、子の拓跋沙漠汗を曹魏の洛陽に遣わし和睦を図ったが、間もなく西晋と対立し、西晋の衛瓘の策略によって沙漠汗を殺害。さらに、衛瓘の離間策によって配下は離散し、278年、衛瓘の軍に敗れて逃げる途中、病死した。享年104の高齢だったという。
[編集] 参考文献
- 『魏書』
- (巻一 帝紀第)
- 始祖神元皇帝諱力微立。生而英叡。
- 元年,歲在庚子。先是,西部內侵,國民離散,依於沒鹿回部大人竇賓。始祖有雄傑之度,時人莫測。後與賓攻西部,軍敗,失馬步走,始祖使人以所乘駿馬給之。賓歸,令其部內求與馬之人,當加重賞,始祖隱而不言。久之,賓乃知,大驚,將分國之半,以奉始祖,始祖不受,乃進其愛女。賓猶思報恩,固問所欲。始祖請率所部北居長川,賓乃敬從。積十數歲,德化大洽,諸舊部民,咸來歸附。
- 二十九年,賓臨終,戒其二子使謹奉始祖。其子不從,乃陰謀為逆。始祖召殺之,盡并其■,諸部大人,悉皆■服,控弦上馬二十餘萬。
- 三十九年,遷於定襄之盛樂。夏四月,祭天,諸部君長皆來助祭,唯白部大人觀望不至,於是徵而戮之,遠近肅然,莫不震懾。始祖乃告諸大人曰:「我歷觀前世匈奴、蹋頓之徒,苟貪財利,抄掠邊民,雖有所得,而其死傷不足相補,更招寇讎,百姓塗炭,非長計也。」於是與魏和親。
- 四十二年,遣子文帝如魏,且觀風土。魏景元二年也。
- 『晋書』
- (巻三 帝紀第三)
- 使征北大將軍衛瓘討鮮卑力微。
カテゴリ: 175年生 | 278年没 | 中国史の人物 | 魏晋南北朝時代の人物