新聞統制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
新聞統制(しんぶんとうせい)は、満州事変からポツダム宣言受諾に至るまでの、いわゆる十五年戦争の間に行われた地方新聞の統合・削減を目的とした数々の政策の総称。
新聞統制の目玉はいわゆる新聞統合、1県1紙制の導入であり、現在も維持され、民間放送などにも影響を与えている。
目次 |
[編集] 概要
1936年に同盟通信社が設立。日本を代表する通信社(国家代表通信社)の誕生であると共に、情報源を集約できるという政府にとっての利点もあった。
1937年の盧溝橋事件(蘆溝橋事件)を機に新聞紙法第27条が発布。軍事・外交に関する情報に関して制限がかけられるようになる。
1941年に真珠湾攻撃の少し前の11月、政府は「新聞ノ戦時体制化ニ関スル件」を閣議決定する。すべての新聞社が「新聞統制会」に加盟、記者クラブの整理、といったのが主となっている。
12月、真珠湾攻撃が起きてからは、内閣情報局が報道に関する制限をさらに強める「記事差し止め事項」を作成。
12月には「新聞事業令」が公布、「1県1紙」体制に向けて新聞社を整理させていく。
[編集] 戦争報道への影響
これらの経緯を経て、新聞社や日本放送協会の報道は制約されはじめる。従軍報道においても取材写真は幾つもの検閲を経て、何度もふるいにかけられてようやく紙面に掲載されることになった。また、言論統制もあって、記事にも日本に有利な情報しか掲載されなくなり、事実に反する内容も少なくなかった。そのため、今も幾つも真実が存在する、曖昧な事件が幾つかあり、今も議論がなされている。
[編集] 整理統合の進捗
新聞社の整理統合は739あった。地域ごと、同じ県でも3~4地区にそれぞれひとつの地方紙が存在した。それを最終的に54にまで削減した。毎日新聞は地域ごとに別会社が発刊していたのを合併によってひとつに集約した。地方紙はその多くを整理・統合させて、最終的に1つの都道府県に対して1~2の新聞社しか発刊を許可されなくなった。
[編集] 新聞統制が遺したもの
残された新聞社は、ライバル社がいくつかの全国紙と1つの地方紙であるため関東・関西以外の地方紙はほぼ独占的なシェアを誇ることとなった。
戦後、新たな新聞社の設立が自由となり、相次いで設立された。この際に起きた全国紙の狂気とも思える無軌道な拡販は新聞界を大きく混乱させた。この際、全国紙の幹部の一人は統制で販売網を譲ったなどから「地方紙には貸しがある」と全く意に介さなかったという。既存の地方紙の地盤を崩すために全国紙は共同で通信社を脱会。これは中央や海外の情報網が貧弱な地方紙の代わりに取材する「通信社」を潰しにでた作戦とされる。また、地方紙でも都市部においては全国紙に発行部数を食われる新聞社も少なくない。
こういう状況下、多くの地方紙は放送局に出資することとなる。放送局への報道協力など、果たす役割も多いからである。しかし、それがそのまま放送局においても「1県1波」の原則で話が進むこととなる。但し、ケーブル会社(県内の地上波は放送局の許可を得たうえで一旦、受信して有線で配信する再配信を業務とする)が県外で電波を受信、県内の契約家庭へ送っている。これは事実上、県内で棲み分けがされている地上波放送局のシェアをケーブルで侵食しており、上越ケーブル事件などの軋轢が発生。免許による保護制度も限界に近づきつつある。
テレビ放送では放送免許の大量交付に伴い、全国紙との関連性が重要視されるが、ラジオ放送に関しては地方紙とのかかわりが非常に深い状態が今も続いている。さらに、地方紙が弱体している県のラジオ放送が無いかあっても1つしかない、という現状でもある。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 水越伸著『メディア・ビオトープ―メディアの生態系をデザインする』 ISBN 4-314-00977-2