新間寿
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新間 寿(しんま ひさし、1935年3月28日 - )は元新日本プロレス専務取締役営業本部長、新間事務所代表、元WWF(現・WWE)会長。東京都新宿区出身。
「過激な仕掛け人」の異名を持ち、昭和期の新日本プロレスを語るのに欠かすことのできない人物である。実父は東京プロレスを立ち上げ、新日本プロレス役員も務めた新間信雄。息子の新間寿恒もユニバーサル・プロレスリングを立ち上げるなどプロレス業界の裏方で働いている。
[編集] 略歴
1966年、実父の信雄と共に東京プロレスの立ち上げに携わる。そこからアントニオ猪木との関係が生まれ、1972年に新日本プロレス入社。専務取締役営業本部長の肩書きで、猪木の右腕として数々の名勝負を実現へと導いた。その中で最大の功績は「アントニオ猪木vsモハメド・アリ」戦を実現させたことである。また、タイガーマスクを現実の世界に登場させ、IWGPの構想を提唱するなど、新日本プロレスに残した足跡は計り知れない。1980年代前半の全盛期には「プロレスブームではなく、新日本プロレスブーム」との発言も残している。(新間の言う通り、1980年代にはライバルの全日本プロレスの中継は新日本よりも早くゴールデンタイムから撤退している。)
1983年に「新日本クーデター未遂事件」の責任をとる形で解任され(この時猪木も代表取締役社長を一時解任されている)、UWFを設立するが、1年ほどで崩壊し、その後も新日本の裏方を続けた。猪木がNWA加盟を拒否されたため、新日本代表としてNWAの名義人となっていたのも、新間と坂口征二であった。
1989年には猪木が立ち上げたスポーツ平和党の幹事長に就任、1992年の第16回参議院議員通常選挙では比例区より立候補している。
その後袂を分かち、一時は猪木の告発本(但し、常日頃「私はアントニオ猪木とプロレスの悪口は言ったことがない」と公言しており、告発したのは「一個人としての猪木寛至」であり、「プロレスラー・アントニオ猪木」ではない)などを出版し両者や新日本プロレスとの関係が疎遠となるが、2002年に猪木と和解、アドバイザーとして復帰し、翌2003年の東京ドーム大会では約20年ぶりにリングに上がった。
現在は「天下のプロレスご意見番」として雑誌などに登場し、プロレス界に苦言を呈している。
[編集] その他
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