方臘の乱
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方臘の乱(ほうろうのらん)は、北宋、徽宗期の宣和2年(1120年)、江南地方地方で発生した反乱。
徽宗が行った花石綱などの苛政を背景に、漆園の経営者「喫菜事魔の徒(マニ教)」方臘の主導で発生した。
乱では一時期、江南の六州五十二県が反乱軍の手に落ちたが、童貫を総司令官とする政府軍により鎮圧された。 なお『水滸伝』にはこの乱の平定に梁山泊の豪傑が活躍したと記されているが、これはたまたま征討に参加した将軍のなかに、梁山泊の宋江と同姓同名の宋江という将軍がいたことから発想された(宮崎市定が中公新書『水滸伝』で論証した)ものであり、無論フィクションである。