明命帝
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明命帝(Minh Mạng, 1791年 - 1840年)は、阮朝の第二代皇帝(在位:1820年-1840年)。初代皇帝である嘉隆帝の第4子。
嘉隆帝の死後、皇帝に即位した。ベトナムとの通商拡大を狙ったフランスが幾度か貿易交渉を行ったが、対外的には閉鎖的姿勢を貫いた。阮朝建国の際、国号を「越南」と定めたが、これは中国の南方という含意があり、中国への服属を思わせるものであった。これに対して明命帝は、国号を「大南」(大越南)と改めた。これは、朝鮮国(李朝)における小中華思想に類推されるもので、清を宗主国としつつ、自らを主体とした「中華秩序」的な世界を形成しようとする意思を示したものとされる。カンボジアへの軍事遠征は失敗におわったが、周辺の諸勢力に十分な脅威を与えた。また、山岳地帯の少数民族に対する統制強化を図った。中央集権化も進められ、ベトナム各地において省県制の徹底が進められた。こうした動きは各地の反乱を招いたが、明命帝はこれを平定していった。また、官吏登用において、建国当初より行われていた科挙に殿試を加えた。
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