昭帝 (漢)
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昭帝(しょうてい 紀元前94年 - 紀元前74年 在位紀元前87年 - 紀元前74年)は、前漢の第8代皇帝。姓は劉。諱は弗陵(ふつりょう)、または弗とも。正式な諡号は孝昭皇帝。
[編集] 略伝・人物
[編集] 概要
武帝の末子。生母は鉤弋皇后(趙倢妤=ちょうしょうよ・後宮の女官の位)。
[編集] 生涯
紀元前91年の巫蠱の乱で長兄の戻太子及びその一家が死に追い込まれると、武帝は新たな後継者を定めなければならなくなった。しかし各地に封建された武帝の皇子達(昭帝の異母兄)は早世したり、言動に問題があったりで、適任者がいない。そこで、幼少の末子・弗陵が替わって皇太子に立てられた。その際、母・趙氏は呂雉のような専横な振る舞いをせぬようにと武帝の命で殺害されている。
紀元前87年、武帝が死ぬと、劉弗陵は数え8歳で即位した(昭帝)。当初、政務は生前の武帝から昭帝の面倒を見るようにと依頼されていた、大司馬大将軍・霍光、左将軍・上官傑、車騎将軍・金日磾(きんじつてい)の3人が後見役を勤めたが、間もなく、金日磾が死ぬと、霍光と上官傑の二人が引き続き後見役を勤めた。当初、両者の関係は非常に良好なものであったが、霍光のもとに徐々に権力が集中し、一方で上官傑の孫娘が昭帝の皇后として入内(上官氏)すると、関係は悪化の一途をたどり、さらに加えて、霍光に不満を持つ武帝以来の旧臣で御史大夫の桑弘羊と昭帝の即位に不満を抱く昭帝の異母兄・燕王劉旦が上官傑の側につくことで政情は不安定なものとなっていた。
彼等は、燕王を昭帝に換えて皇帝に擁立しようとするも失敗し、紀元前80年までに処刑、若しくは自殺に追い込まれ、以降は霍光が輔政の任にあたり、その子弟がこれを補佐するという体制が宣帝の時代の初期まで続くこととなる。
昭帝の時代の政治の特色としては、武帝以来の専売制を弱め、国力の回復に専念したことにある。霍光の意向を受け専売制の廃止を訴える儒者と専売制の続行を進めんとする桑との論争をまとめたものとして、『塩鉄論』があるが、これは昭帝の時代に行なわれた両者の論争を元にまとめられたものである。
昭帝は、紀元前74年に数え21歳で急病に倒れ、1ヶ月ほどの闘病の末に没した。
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