有馬新七
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有馬新七(ありま しんしち、男性、文政8年(1825年) - 文久2年4月23日(1862年5月21日))は、幕末の尊攘派志士。諱は正義。号は武麿、植鈴子。
薩摩藩伊集院郷の郷士・坂木四郎兵衛の子として生まれる。
天保14年(1843年)より江戸で学び、安政4年(1857年)には薩摩藩邸学問所教授に就任。尊皇攘夷派の志士達と多く交流して水戸藩とともに井伊直弼暗殺(桜田門外の変)を謀ったが、自藩の同意を得られなかったため手を退き、結果的に水戸藩を裏切る形となった。
その後も過激な尊皇攘夷活動を続け、同志達と共に寺田屋に集っていたところを、同じ薩摩藩士らによって粛清された(寺田屋事件)。この際、刀が折れて刺客の道島五郎兵衛と組み合いになり、助太刀に入った橋口吉之丞に「おいごと刺せ」と叫んだとされている。享年38。