有馬藤太
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有馬藤太(ありま とうた、天保8年(1837年) - 大正13年(1924年))は、幕末期の薩摩藩士。東山道総督府斥候。名は純雄。
薩摩藩砲術師範有馬藤太(同名)の長男に生まれる。小野郷右衛門に飛太刀流を学び、十九歳で師範代になるほどの腕前だった。特に抜刀術を得意としたという。伊地知正治に引き立てられた。
慶応4年(1868年)1月に戊辰戦争が勃発すると、4月に東山道総督府の斥候を命じられ、香川敬三率いる一隊に従軍して宇都宮へ向かった。
途中、流山に旧幕府軍が駐屯しているという報告を聞き、不意をついて甲陽鎮撫隊(新選組)の陣屋を包囲。局長近藤勇を越谷まで連行することになった。
その後、結城城奪還や板倉伊賀守捕縛等、活躍する。14日、一時江戸に帰還し、板橋に拘留されている近藤の処刑に反対したと伝えられる。結局板橋において近藤は処刑された。その後、22日の壬生城の戦闘で獅子奮迅の活躍をするが、数箇所に銃弾を浴び、重傷を負い、横浜の病院に檻送された。
維新後は弾正台、司法省官吏を務めて明治政府に出仕。明治六年政変で西郷が下野したときに辞職し、鹿児島へ帰ったが、私学校党から人柄を嫌われ、仲間はずれにされた。明治10年(1877年)の西南戦争には従軍しなかった。大坂で有志を募り、挙兵して、その功で西郷軍に加わろうとしたが、警察に仲間が拘留されて果たさなかった。
その後、民間企業に就職し、ついには満州に渡り、虎公園の管理人等をしていたという。 晩年、東京へ戻り、世田谷にて他界。享年88。「維新史の片鱗」という著書を遺している。