本因坊元丈
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本因坊元丈(ほんいんぼうげんじょう、安永4年(1775年) - 天保3年(1832年))は、江戸時代の囲碁棋士で、家元本因坊家の十一世、八段準名人。安井知得仙知と拮抗した好敵手であり、ともに名人の技量ありと言われながら名人とならなかった。囲碁四哲と称される一人。攻めの強い棋風。
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[編集] 経歴
清水徳川家物頭役宮重八郎左衛門の四男として江戸で生まれる。元の名は宮重楽山。知得との初対局は、天明8年(1788年)で、この時元丈14歳、知得13歳で、知得先で楽山12目勝ちであった。寛政2年(1790年)に知得と十番碁を打ち、知得先相先で5勝4敗1ジゴ、寛政4年(1792年)以後はほぼ互先となる。寛政6年(1794年)には四段となり、この時の楽山と知得の棋譜を後の関山仙太夫は「両雄は珍物」と褒めた。
本因坊烈元は河野元虎を跡目候補に目していたが、寛政7年(1795年)に元虎は没し、寛政10年(1798年)五段で楽山が跡目となり、元丈と改名。この年の御城碁に初出仕し、七世安井仙知に先番5目勝ちを収める。寛政12年(1800年)六段。文化元年(1804年)七段上手。文化5年(1808年)に烈元病気のために隠居願いを出すが受けられず、12月に死去するが一門はこれを秘し、翌年に家督相続を許されて11世本因坊元丈となる。この後に烈元の死を公表した。文化11年(1814年)知得と同時に八段準名人に昇る。文政2年(1812年)の御城碁での、初出仕の井上安節(井上幻庵因碩)五段との二子局黒1目勝ちの碁は、元丈一生のできばえと呼ばれている。
知得との御城碁では、寛政12年(1800年)の知得初出仕から、文化12年(1815年)まで、2勝2敗1ジゴ。ジゴは元丈白番であった。
元丈の跡目候補には奥貫智策が候補と考えられていたが、智策は文化9年(1812年)に27歳で夭逝したため、戸谷丈和(本因坊丈和)を候補と目すようになる。文政2年(1819年)に丈和を跡目とし、文政10年(1827年)に隠居して、丈和に家督を譲る。その後、丈和の名人就位運動にも特に関わらず、酒を楽しみに余生を送った。墓所は本妙寺で、現在は本因坊秀甫と同じ墓に葬られている。
実子に13世本因坊丈策、宮重策全六段がいる。
[編集] 著作
- 『古碁枢機』1821年 本因坊道知までの名人の打碁集
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 武宮正樹『元丈 日本囲碁大系(10)』筑摩書房 (1976年)
- 矢田直己『秘譜発掘』誠文堂新光社 2004年(「元丈・知得八十四番碁研究」を収録)
- 囲碁データハウス『本因坊元丈』(PCソフト、元丈の全棋譜226局を収録)
[編集] 外部リンク
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