李上金
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李上金(りじょうきん、? - 690年)は、唐の高宗李治の三男である。母親は楊氏。
高宗が即位すると、上金は杞王に封ぜられた。永徽三年(652年)、益州大都督を遙領した。乾封元年(666年)、寿州刺史に任ぜられ、また漉州刺史をつとめた。武后に憎まれて官位と封号を奪われ、澧州に流された。
永隆二年(682年)、武后は上金と鄱陽王李素節を朝政に参加させるように上表した。しかしのちに上金を沔州刺史に、素節を岳州刺史として、かれらの朝政への関与を再び妨げた。嗣聖元年(684年)、高宗が亡くなると喪に服した。文明元年(同684年)に上金は畢王に封ぜられ、さらに沢王に改封され、蘇州刺史に任ぜられた。垂拱元年(685年)、陳州刺史に転じた。永昌元年(689年)、太子左衛率に任ぜられ、隨州刺史となった。
載初元年(690年)、武承嗣が上金と素節に謀反のたくらみありと誣告し、ふたりを洛陽に召還して御史台に送った。素節が南龍門駅で殺害されると、上金はおそれて自殺した。かれの死後に、かれの七人の子は顕州に流され、そのうち義珍・義玫・義璋・義環・義瑾・義璲は現地で死に、ただ義珣のみが生き残った。唐の中宗が復位した後、上金の官爵は復され、義珣は沢王の位を継いだ。