柔然
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柔然(じゅうぜん)とは5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配したモンゴル系遊牧民による国家の中国側からの呼び名。蠕蠕(ぜんぜん)・茹茹(じょじょ)苪苪(ぜいぜい)とも表記される。
柔然の始祖は木骨閭と呼ばれ、その王族は郁久閭氏と言った。3世紀ごろには鮮卑に従属していたが、鮮卑が中国へ移住した後のモンゴル高原で勢力を拡大し、5世紀初めの社崙の時代に高車を服属させてタリム盆地一帯を支配し、北魏と対立した。また社崙は史上初めて可汗(かがん、はがん。後のハーンの元)を使った。社崙は北魏の明元帝の軍に敗れて逃走中に死去した。
北魏との対立を深めた柔然は南朝宋・夏・北涼・北燕・高句麗・吐谷渾と結んで北魏包囲網を形成した。夏・北涼・北燕はやがて北魏により滅ぼされるが、柔然は勢力を保ち続け、吐谷渾を介在して宋と連絡を取り合っていた。
これに不快感を覚えた北魏の太武帝は429年・449年の二回に渡る親征軍により、柔然は本拠地を落とされて可汗は逃走中に死去した。しかしそれでもなお柔然は強勢を維持し続け、北魏も対南朝の関係から北だけに目を向けるわけにはいかなかった。
柔然が本格的に弱体化するのが485年・486年に配下の高車が自立してからである。高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷であった突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて可汗の阿那壞が戦死し、残党は北魏に援助を求めたが突厥の要請により殺され、柔然は完全滅亡した。
なお、アヴァール族は柔然の一派ではないかとの説もあるが、詳細は不明。
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