楊阜
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楊阜(ようふ、生没年不詳)は、中国三国時代の魏の武将。字は義山。
雍州天水郡(現在の陝西省天水市)の人。曹操のもとで涼州刺史を務めていた韋康のもとで参軍を務めていた。
馬超が冀城を攻めてきたときにはよく城を守ったが、韋康は馬超の武勇を恐れて降伏を決意する。このとき、楊阜は泣いてまで降伏に反対したと言われている。そして降伏した韋康は不忠者として馬超に殺され、楊阜は韋康に対する忠義を馬超から賞賛されて、そのまま馬超の家臣として召し抱えられた。この際、当時馬超の武将だった龐徳は楊阜を殺すように進言したが、馬超は受け入れなかった。
楊阜は韋康を殺した馬超を憎み、妻の葬儀を理由にして馬超のもとから一時的に離れる。そしてその間に味方の諸城と連絡を取り合って、姜叙と共に馬超に対して反乱を起こした。この反乱で楊阜の一族7人が馬超によって殺され、楊阜自身も重傷を負ったが、楊阜も馬超が冀城に置いていた妻子一族全てを捕らえて虐殺している。そして、夏侯淵の援軍を得て、遂に馬超に勝利したのであった。
この功績により、曹操は楊阜を列侯に封じようとした。楊阜は初め応じなかったが、曹操が何度も位を与えようとしたため、遂に応じたと言われている。