橘広相
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橘 広相(たちばなの ひろみ、承和4年(837年) - 寛平2年5月16日(890年6月10日))は平安時代初期の貴族・学者である。
橘峯範の次男で、橘諸兄の五代後の孫。菅原是善に学び、陽成天皇、光孝天皇、宇多天皇の3代に仕える。887年、宇多天皇が関白に任じようとしていた藤原基経は広相が起草した勅答に「阿衡に任ず」との文字があり、基経は阿衡は位のみで職掌が無いとして出仕を拒否する阿衡事件が起こる。天皇も広相の非を認め、責を問われて失脚する。事件後に基経の娘が入内しており、この事件は広相の娘義子(宇多天皇女御)の産んだ皇子が即位して外戚になる可能性があったことから藤原氏の陰謀によるものと言われる。