池谷友良
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池谷 友良(いけや ともよし、1962年6月17日-)は、静岡県出身のサッカー選手で、サッカー指導者。
静岡県立浜名高校時代は全国大会の出場経験はないが、3年生の時に国体の静岡県チーム入りし、優勝。中央大学に進学し、卒業後日立製作所サッカー部(現在の柏レイソル)に入部。当時の日立製作所サッカー部は日本リーグの1部と2部の往復生活で、池谷自身それほど出場機会が多くないこともあり、選手としては全国区になれないまま29歳で引退する。
引退後は下部組織のコーチとして日立製作所→柏レイソルに残留。1995年のシーズン途中からトップチームのコーチに昇格し、1999年のナビスコカップ獲得、2000年のシーズン通算勝ち点1位(ただしステージ制覇はならなかったので年間成績は3位)に貢献した。その後チームは下降線を辿り始め、2002年に監督のスティーブ・ペリマンが解任された際には監督代行を務めた。マルコ・アウレリオの監督就任に伴って池谷はトップチームから身を引き(「ユースチーム・スクールマスター」の肩書きでチームには残った)、2003年にはU-15日本代表のコーチを務めた。
その後も柏は低迷が続き、抜本的なチーム改革が必要と感じたフロントは、日立製作所時代から20年近く所属してきた池谷を監督としてトップチームに呼び戻した。しかしリーグ戦開幕2連勝の後8試合連続勝ち無しで最下位に転落すると池谷は解任されてしまう。チーム状況が悪かったとはいえ、この年から「3カ年計画」を打ち出して池谷にある程度の長期政権を任せる意向だったフロントの安易な方針転換は長期ビジョンの無さを浮き彫りにした(その後、柏は早野宏史を監督に招いたがチームは池谷時代以上に悪化し、翌年にはついにJ2降格となった)。
解任という形で20年近く所属した柏を去った池谷だが、「3年でのJリーグ入り」を目標に誕生したロッソ熊本の初代監督として招聘され、再就職先は早く見つかった。ロッソ熊本は2004年まで九州社会人リーグ(Kyuリーグ)に所属していたアルエット熊本が母体だが、チーム名を変更するにあたって選手のほとんどを入れ替え、Jリーグ経験者も多く所属する陣容となった。池谷自身も「3年でJリーグに上げる」と公言しており、2005年はJFL昇格が至上命令となった。シーズン中盤以降にややもたついたもののKyuリーグでは優勝。その後の全国地域リーグ決勝大会では3位に終わったが、愛媛FCが2006年からJ2に昇格することに伴い、めでたくJFL昇格となった。2006年に引き続き、2007年シーズンもロッソ熊本の指揮をとることになった。
[編集] 選手経歴
[編集] 指導経歴
- 日立製作所/柏レイソル:サテライトコーチ 1992-1995.7
- 柏レイソル:ヘッドコーチ 1995.81996
- 柏レイソル:コーチ 1997-2002
- 柏レイソル:監督代行 2002.8
- 柏レイソル:ユーススクールマスター 2003
- 柏レイソル:監督 2004途中まで
- ロッソ熊本:監督 2005-
ロッソ熊本 - 2007 |
---|
1 太洋一 | 2 佐藤祐介 | 3 河端和哉 | 4 鈴木祐輔 | 5 山口武士 | 6 福王忠世 | 7 松岡康暢 | 8 喜名哲裕 | 9 北川佳男 | 10 斉藤紀由 | 11 高橋泰 | 13 町田多聞 | 14 河野健一 | 15 市村篤司 | 16 矢野大輔 | 17 熊谷雅彦 | 18 大瀧直也 | 19 上村健一 | 20 関光博 | 21 小林弘記 | 22 森川拓巳 | 23 有村光史 | 24 遠藤真仁 | 25 鈴木真司 | 26 山本翔平 | 27 宮崎大志郎 | 28 吉井孝輔 | 29 小林陽介 | 30 山内祐一 | 31 西森正明 | 32 松岡卓 | 33 小森田友明 | 34 太田浩 | 37 加藤竜二(GKコーチ兼選手) | |
|
|
|
|
|
|
|
カテゴリ: 日本のサッカー選手 | 日立製作所サッカー部の選手 | 日本のサッカー指導者 | 1962年生