津軽信政
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津軽 信政(つがる のぶまさ、正保3年7月18日(1646年8月28日) - 宝永7年10月18日(1710年12月8日))は、陸奥国弘前藩の第4代藩主。父は第3代藩主・津軽信義(信政は長男)。母は唐牛甚右衛門の娘・久祥院。正室は増山正利の娘・不卯姫(涼松院)。並びに鎌倉で浪人をしていた人物の娘と言われている松顔院。側室は平盛昌の娘・普光院。赤内理兵衛の娘・永昌院。古郡宗秀の従妹など多数。子は津軽信寿(次男)、那須資徳(三男)、津軽寿世(五男)、娘(堀親賢正室)、娘(松平信清室)ら。官位は従五位下、越中守。
正保3年(1646年)7月18日生まれ。幼名は平蔵。明暦元年(1655年)に父が死去したため、明暦2年(1656年)2月2日に家督を継いで藩主となる。しかし幼少であったため、しばらくは叔父に当たる津軽信英が補佐を務めた。信政は幼少期から聡明な人物で、山鹿素行に師事して儒学や兵学を学び、吉川惟足の師事も受けて神道を学んだ。そして、惟足からは吉川神道の奥義を授けられている。
こうして成長した信政は、自らが藩政を取り仕切るようになると、津軽新田の開発、治水工事、山林制度の整備、植林、検地、家臣団の郊外移住による城下町の拡大、野本道玄を招聘しての養蚕、織物、製糸業の発展・育成などに努めた。民政においても善政を敷き、弘前藩の藩政確立と発展に尽力し、藩の全盛期を築き上げたのである。文化面においても、豊田雅一や渋江道陸ら40名にも及ぶ文化人を招聘して藩の文武発展に努めた。対外的には寛文9年(1669年)のシャクシャインの反乱鎮圧、天和3年(1683年)の日光山宮普請役などで功績を挙げている。
しかし晩年である貞享4年(1687年)、烏山藩主・那須資徳(信政三男)の相続問題で幕府より叱責を受けたうえ、烏山藩那須氏改易という、那須家御家騒動に巻き込まれる(武家の名門である那須家は、交代寄合1000石として存続)。
元禄8年(1695年)、藩内を襲った大飢饉で3万人以上の死者を出すなど、藩政にも行き詰まりが見え始める。元禄16年(1703年)にも播磨国赤穂藩における旧浅野氏藩士処分などの失態事件を起こすなど、次第に信政自身にも老耄が見え始め、藩政は衰退の一途をたどった。このような中で宝永7年(1710年)10月18日、弘前にて死去し、後を次男の信寿が継いだ。享年65。墓所:青森県弘前市の高照神社。
晩年は失態を重ねたが、それでも弘前藩の全盛期を築き上げた手腕は高く評価され、江戸時代前期の名君、並びに弘前藩中興の英主と言われている。
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